第25回(最終回)「“引請(いんじょう)”という責務 ―“仏の慧命(えみょう)嗣続(しぞく)を願って―

此の十六条の仏戒の、大概(たいがい)(かく)の如し。教わるに随い、授かるに随い、
或は礼受(らいじゅ)し、或は拝受(はいじゅ)すべし。()今引請(いまいんじょう)せん。

「108歳の禅師様」と呼ばれ、多くの人々に慕われた大本山永平寺第七十八世・宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師様(1901−2008)は、「戒というのは、本来の立派な本性に立ち返ることであり、自分の中にある真理を呼び覚ますことである。」とおっしゃいました。今から約2600年前の12月8日の明け方、坐禅修行によって本来の立派な本性に立ち返り、自分の中にある真理を呼び覚まされたのがお釈迦様です。そんなお釈迦様に全面的に帰依(我が身を委ねる)した高弟・摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)にお釈迦様がお悟りになった法が伝わり、摩訶迦葉尊者から阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)に同じように法が伝わっていきました。そこから仏法は拡がり、インドにおいて二十八祖、中国において二十三祖、師から弟子へと伝わり、我が国にも永平寺開祖・道元禅師様によってもたらされ、今日に至っています。

そうしたお釈迦様から脈々と伝わる仏法は、仏戒でもあります。仏戒は、お釈迦様から伝わる“悪を起ち・善を修する”という言動を指しますが、「教授戒文」は、その仏戒について、道元禅師様によって提示されたものです。道元禅師様は「教授戒文」の中で、仏戒について、十六通りの方法で大まかに概要をお示しになってまいりました。まずは「三帰戒(さんきかい)」です。これは「南無帰依仏(なむきえぶつ)」・「南無帰依法(なむきえほう)」・「南無帰依僧(なむきえそう)」という、仏法僧の三宝に帰依するということです。次は「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」です。「悪を断つ」ことを誓う「摂律儀戒(しょうりつぎかい)」、「善を修する」ことを誓う「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」、そして、周囲のいのちに配慮することを心がける「摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)」です。そして、そうした仏戒を日常生活の場面に即して、具体的に十通りの形で示されたのが「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」です。「三帰戒」+「三摂浄戒」+「十重禁戒」で「十六条戒」なのです

「十重禁戒」を読み味わっていく中で、「“(ひとつ)”になる」というキーワードが登場しました。これは自分と周囲の存在との間に垣根を作らないことです。垣根によって、自と他の区別ができると共に、そこに自分の好みや都合が混じっていくことで、差別が生じていきます。「摂衆生戒」というのが「周囲のいのちに配慮した言動を心がけることである」とするならば、それは「“同”になる」のを目指すことによって実現できると捉えることができるでしょう。そうなると、「悪を断つこと」、すなわち、「善を修する」というのも、周囲と「“同”になる」ことによって実現できることに気づかされるのです。

こうした仏戒というものが師から弟子へと受け継がれてきた歴史が、仏教の2600年余りに及ぶ歴史なのです。ここでは、師に帰依する弟子たちは、一切の私見を交えることなく、師の教えに随い、仏戒を授かってきました。まさに「教わるに随い、授かるに随い」です。師はもちろんのこと、仏法僧の三宝に礼拝(礼受・拝受)しながら。そうした仏戒というものと私たちのご縁を結んでくださる“誘導役”を担うのが師なのです。「引請」とあるのは、「誘導」のことです。

少しでも多くの人々が、「自他の垣根を取り払う」と共に、「本来の立派な本性に立ち返り、自分の中にある真理を呼び覚ますこと」を願って、出家者には「引請」という責務があることを意識していきたいものです。そのためにも、仏戒に対する弛まぬ学習と日常生活での修行を心がけていきたいものです。そして、そうした日々の積み重ねによって、「仏の慧命を嗣続する」ということが実現し、仏教の歴史が未来へと刻まれていことを再確認しておきたいものです。