第85回「
時に
仏の説きたもう
※ヌは「少」の下に「兎」
今まさにいのちの炎の揺らめきが消えかかろうとしている2月15日の夜半。静寂に包まれた暗闇の中で、お釈迦様はお弟子様たちに、四諦(苦・集・滅・道)の真理について不明な点はないか問いかけました。しかし、その場にいる全てもののは、「衆疑い無きが故に」とあるように、お釈迦様のみ教えをしっかりと理解できていたので、誰も問うものはありませんでした。お釈迦様との永遠の別れが刻一刻と近づく中で、語るべきものが語り尽くされ、問うべきものも問い尽くされた状況というのは、全てが解決した雲一つない晴れ渡った青空のようなものなのか、あるいは、まだお聞きしておくべきことがないか模索を続けているかのようなものなのか、その場にいる者の心の中は異なっていたのではないかという気がします。
そんな中、一人の高弟が、“衆の心を観察”しながら、言葉を発しました。「世尊、月は熱からしむべく、日は冷やかならしむべくとも、仏の説きたもう四諦は、異ならしむべからず。」―この臨終迫るお釈迦様の枕元にお集まりになっている一人一人の心情を丁寧に読み取りながら、お釈迦様に向かって発された言葉は「空に昇る月が熱くなり、太陽が冷たくなるようなことがあっても、師がお示しになった四諦の真理が変わることはありません。」という内容のものです。夜空に浮かぶ月は冷やかに、日中の空に昇る太陽は燦燦と照り輝くのがこの世の道理であり、それが簡単にひっくり返るものではありません。お釈迦様のみ教えは、それと同じものであると、高弟のお一人はおっしゃったのです。
この高弟とは、お釈迦様のお弟子様の中でも特に優れた「
ちなみに、阿ヌ楼駄について、少し触れておきますと、別名、「
私たちの中にも、阿ヌ楼駄のように、何らかのきっかけで目や耳などの感覚器官、あるいは手足など、身体の機能の一部を失った方がいらっしゃいます。また、年齢を重ねていく中で、身体が衰えていくのは誰にでも当てはまることです。「目が見えないというのはどんな感覚なのだろうか」―私は時折、両眼を閉じて、今まで当たり前にやっていたことをやってみようと試みることがあります。すると、できていたことができない現実を突きつけられ、悲しさや寂しさを痛感するのです。とは言え、「見えない現実」にハッとして目を開ければ、何もかもが見えます。しかし、もし、いくら目を開けても何も見えなくなってしまったとするならば、その恐怖や失望感というのは、想像を絶するものではないかという気がします。
障がいを持った方々が、幾多の困難や想像を絶する苦悩を経験されながら、それらを乗り越え、明るく、元気に過ごしているお姿を拝見するに、頭が下がるばかりです。また、阿ヌ楼駄が失った肉眼の代わりに天眼を手に入れたように、身体の別の部位や心といった、他の器官が他者に秀でて発達しているようにも見えます。こうした背景には、諦めたり、怠けたるするのではなく、ご自分たちのできる範囲で精一杯がんばるという、「精進」のお姿が垣間見えます。お釈迦様は、「精進」について、「少水の常に流れて石を穿つが如し」とおっしゃいましたが、自分のできる範囲でコツコツとやっていくという地道な生き様というのは、誰にでも大切かつ必要な生き方ではないかという気がします。
釈尊入滅時の要となる天眼第一・阿ヌ楼駄尊者のお言葉はこの後も続きますが、そこからしっかりと私たちの目指すべき生き様を学ばせていただきたいものです。