第86回「八正道(はっしょうどう)に生きる」

仏の説きたもう苦諦(くたい)は、実に苦なり、楽ならしむべからず。
(しゅう)
(まこと)に是れ因なり、更に異因(いいん)なし。
苦若
(くも)
し滅すれば即ち因滅(いんめつ)す、因滅するが故に果滅(かめつ)す。
滅苦
(めっく)
(どう)は実に是れ真道(しんどう)なり、更に余道(よどう)なし。

お釈迦様の十大弟子のお一人である()楼駄(るだ)阿那律尊者(あなりつそんじゃ))のお言葉が続きます。

※ヌは「少」の下に「兎」 以降、本文中では「アヌルッダ」と表記します。

「お釈迦様がお示しになっている苦諦(人生の現実は全てが苦であるという道理)は、本当に苦しみであって、決して、楽なものではない。集諦(じったい)(苦しみの原因が我々の中に生じた三毒煩悩であるという真理)もその通りであって、他に原因はない。苦しみが滅すれば、その原因である煩悩も滅するだろう。原因である煩悩が滅すれば、その結果である苦しみも滅するだろう。この滅諦(めったい)に至るための道(道諦(どうたい))こそが真道であり、それ以外に道はない。」と―。「真道」とあるのは、「仏祖の大道」ということで、仏のお悟りへの道です。アヌルッダのように、常にお釈迦様と行動を共にし、そのみ教えに幾度も幾度も触れてきた高弟たちにとって、お釈迦様が指し示す真理は疑いようのない、絶対の存在であり、唯一の苦悩を解決する手段なのです。

そう言われても、皆様の中で、お釈迦様のみ教えを聞いて、中々、納得できないとか、疑いを懐くというようなことがあるという方がいらっしゃるかもしれません。私自身も幾度もそんな経験がありましたが、何度も確認していく中で、いつしかすんなりと受け入れられるときが訪れたのは確かです。「いや、自分はそうは思わない」といった具合に、私見を交えて否定するのではなく、腑に落ちるまで疑問と向き合うことによって、ようやく理解できるようになるのです。そういうものであるということを理解しておくことも大切です。この過程には、自分自身の日常レベルにおける人生経験も大いに影響してくるため、“早く”とか、“簡単に”というわけにはいかないところもあります。むやみやたらと焦らず、それでいて、決して、諦めることなく、真道と向き合い、滅苦の道を歩んでいきたいところです。

ちなみに、「道諦」について触れておきますと、これは「八正道(はっしょうどう)」のことで、先の四諦(したい)と共に、坐禅によって悟りを得たばかりのお釈迦様が鹿野苑(ろくやおん)にて初めてなさったご説法(初転法輪(しょてんほうりん))の内容です(下記一覧表参照)。“正しい”というのは、世間一般の基準ではく、仏のお悟りの基準で測ったもので、仏のお悟りに叶ったものは正しく、そうでないものは正しいとは言えません。もう少し具体的に申し上げるならば、自分の価値観を最優先して、何か一点に捉われたり、偏ったモノの見方や捉え方をしたりすることも正しいとは言えません。“偏らないこと”が“正しいこと”であるのです。

正 見 しょうけん 偏らないモノの見方・捉え方をすること。智慧(ちえ)
正 語 しょうご 偏らない言葉の使い方をすること。愛語。
正 業 しょうごう 偏らない行いを心がけること。不殺生(ふせっしょう)不偸盗(ふちゅうとう)など。
正 命 しょうみょう 仏の生き方を心がけること
正精進 しょうしょうじん 仏のお悟りに向かって真っ直ぐに進んでいくこと。
正 定 しょうじょう 心を穏やかに保ち、安定させること。禅定(ぜんじょう)
正思惟 しょうしゆい 偏らないモノの考え方・思考の巡らせ方。
正 念 しょうねん 偏らないように記憶すること。不忘念(ふもうねん)

日々の生活の中で、“偏らない”ということを意識しながら言動を発していくことが「八正道」の実践につながっていくことを、是非、肝に銘じておきたいものです。