第16回  「自分たちの心がけ・生き方次第で」

大凡因果の道理歴然として私なし

造悪の者は墜ち、修善の者はのぼる

豪釐もたがわざるなり


(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事(ぶっけいちだいじ)の因縁なり」―修証義の冒頭にあるこの一句は、仏法僧の三宝とご縁をいただいた仏教徒の課題とは、自分の生き方と死に様を明確にすることであるということでした。これまで修証義では「どうやって生を明らめるか・・・?」という点について、2つのポイントが示されてきたように思います。すなわち、一つには私たちが自分たちがいのちをいただいた娑婆世界において、どうやって生きていけばいいのかを考えたとき、まずは自分たちの生きる土俵の仕組みや特徴を把握すること(諸行無常・諸法無我)。そして、娑婆世界の終焉を意味する死を生と分別して捉えるのではなく、一連の流れとして捉えるという視点を持つこと(生死即涅槃(しょうじそくねはん))という2点でした。

前々回より「(ごう)」について触れられています。業は私たちの行いのことでした。私たちの死んで肉体が消滅しても、自分の生前の行いは残るんだと修証義は説きます。ここが私たちが「死を明らめる」上での大切なポイントではないかと思います。そういう意味で「業」の思想をしっかりと味わっていきたいと思います。

さて、「因果の道理歴然として私なし」とあります。それは因果の道理というのは自分の都合でどうにかできるものではないということです。自分にとって好都合なことも不都合なことも、自分の都合に一切関係なく発生し、何かしらの結果をもたらします。それは、善人であれ、悪人であれ関係ありません。みんなに愛される善人が辛い思いをしている様を見て、「あんなにいい人がなぜ、あんな辛い目に遭うのだろう・・・。」と思って、辛くなった経験は誰しもあると思います。しかし、悲しいかな、それは人間の心情としては理解できても、「邪見(道理から外れた誤った見方)」なのです。我々が生きている世界は誰もが個人の思いに関わらず好事や悪事に出会うのです。それが「諸法無我」というこの世のしくみです。

そういう人間社会で生きていく中で、もし、好事に出会えたならば、好事を続けられように、悪事と巡り会ったならば、自分を省みて、好事に転換できるようにしていくことが大切です。「造悪の者は墜ち、修善の者はのぼる」とあります。悪事を働けば、悪果を招き、善行を積めば、善果が訪れますが、結果の善し悪しに左右されることなく、ひたすらに前を向いて積極的に生きていきたいものです。「人間は誰しも無限の可能性を秘めた存在である」ことを多くの祖師方は説いていらっしゃいます。

「豪釐もたがわざるなり」「善行には善果が、悪行には悪果が訪れることは、ちっとも否定しようのない、確かな事実」だと道元禅師様はおっしゃいます。しかし、そこには、「自分の生き方次第で善にも悪にも転じる」という明るい可能性が含まれています。どんな悪果を招こうが、自分の身の処し方次第で善果に巡り合えるのです。

すべては私たち一人一人の心がけ、生き方次第なのです。