第88回「初発心 −“夜電光を見て、道を見ることを得る”を願って−」
若し初めて法に入る者あれば、仏の所説を聞いて即ち皆得度す。
譬えば夜電光を見て、即ち道を見ることを得るが如し。
アヌルッダの言葉が続きます。
アヌルッダようなお釈迦様の「十大弟子」と呼ばれた方々は、お釈迦様とのお付き合いも長く、ご縁も深い方々ばかりです。この方々は、お釈迦様のお人柄やお考えになっていることまで、よくよく理解できていることでしょう。そして、お釈迦様から多くのみ教えをいただき、余すところなく吸収して、もはや他に学ぶことがないくらいまでに十分に理解できた方々と言うことができるでしょう。それは前段で取り上げさせていただいたアヌルッダの言葉からも明確です。
そんな十大弟子とは反対に、初めてお釈迦様のみ教えに触れるような方々(初めて法に入る者)がいらっしゃったとしても、仏の所説(お釈迦様のみ教え)を聞けば、必ずや理解を得られるとアヌルッダは太鼓判を押します。「得度」というのは、出家して、仏の戒法を得て仏門に入るという意味で使われる仏教用語ですが、突き詰めれば、“度を得る”とあるように、仏のみ教えを得て、身心共々に静寂なる涅槃の境地に渡(度)ることを意味しているのです。
数多の仏様の中でも、観音様(観世音菩薩)やお地蔵様(地蔵菩薩)を始めとする「菩薩」様は、「仏のお悟りを求めながら(上求菩提)、周囲のいのちに心を配り、その苦悩を救うこと(下化衆生)を役目とする仏様」です。これは、菩薩様が我々衆生が苦悩から救われることを願い、悟りの世界に導く案内人としての役目を有するということです。この役目に注目したとき、“度を得る”というのは、菩薩様のお導きによって、大きな川の向こうにある仏の世界に渡るようなものであると捉えることができます。川の向こうにある仏の世界を「彼岸」と申し、その反対に我々が生きる川のこちら岸を「此岸」と申します。「此岸」にて「彼岸」のみ教えを伝えながらも、「此岸」と「彼岸」を分け隔てる川の存在をなくして、二つの世界を一つにすると共に、実は“此岸こそが彼岸である”ことを、此岸に生かされている我々に気づかせるのが、菩薩様の役目なのです。
この“此岸こそが彼岸である”という気づきは、まさに「夜電光を見て、即ち道を見ることを得るが如し」の感覚です。暗闇の中に差し込む一筋の光によって、見えなかった行先が見えるようになれば、我々は安心して、前に進んでいけるでしょう。夜の電光という、一筋の光明は道を歩むものにとって、貴重な大発見なのです。
得度ということに対して、自分自身に当てはめてみたとき、お寺に生を受けた私は、小学校六年生の春に曹洞宗の定め通りに得度式を受け、仏門に身を投じさせていただきました。得度について、何か特別な自覚もなく、寺の子として成人し、23歳になって、大本山總持寺(横浜市鶴見区)で修行をさせていただきました。思えば、僧侶であることに無気力で、仏道に精進していこうという志も薄く、惰性で過ごしていたような気がします。
そんな私が、ご本山での修行を終え、24歳のときに高源院住職を拝命。25歳になって布教師養成所に入所させていただき、講本となった「正法眼蔵随聞記」を1年がかりで読み味わわせていただいたことが、仏道を精進する志を固めた大きなきっかけになったような気がします。まさに「夜電光を見て、即ち道を見ることを得」た機縁でした。そして、これが、仏門に身を投じて13年目の私に訪れた、“遅ればせながらの「初発心」”だったような気がします。そして、その機縁によって、今の幸せがあるような気がするのです。
初めて法の世界に入る者が、仏の所説に触れながら、我が人生の方向を彼岸の地に定める「初発心」という機縁を、出家のみならず、在家信者の方にも持っていただくことを願うのです。