第89回「感応道交(かんのうどうこう) −師と弟子の心が通じ合うということ−

()所作巳(しょさすで)に弁じ苦海(くかい)(わた)る者は()()(ねん)()すべし、
世尊
(せそん)
滅度一(めつどひとえ)に何ぞ(すみやか)なる()と。

引き続き、アヌルッダはお言葉を発します。前回は「初めて法に入る者」に対するお言葉でしたが、今回は「所作已に弁じ苦海を度る者」とあるように、「仏道修行によって、為すべきものは全て成し遂げられ、生きていく上での苦悩が解決された者」、すなわち、得度の因縁を成した者に対するお言葉です。「是の念を作すべし」とあるのは、前段にある「仏の所説を聞いて皆得度す」を受けてのことで、得度の因縁を成した者が、お釈迦様のみ教え(仏の所説)をいただいて、身心共々に静寂なる涅槃の境地に度る(入る)ことを指しています。

そうした方々は、「世尊の滅度一に何ぞ疾なる哉と。」とあるように、『「釈尊(世尊)の入滅(死)が、何と一方ならぬ速やかなものであるか」と捉えるべきである』と、アヌルッダは静かに道を得た者の心がけを語るのです。それは、いのちあるものは、いつか必ず最期を迎えるという道理を、そのまま受け止めることが大切であるということです。

こうしたアヌルッダのお言葉の奥底に潜むお心とは、どのようなものであるのでしょうか。それを推察するに、今、アヌルッダ始め、お釈迦様の最期のみ教えに耳を傾ける者の多くは、お釈迦様と共に長い時間を共に行動し、お釈迦様のみ教えを十分すぎるくらいに聞いて、道を体得した方々ばかりです。たとえ、間もなく師・釈尊との永遠の別れが訪れようとも、決して、心乱れることなく、眼前の現実を受け止めることができる方々ばかりです。しかし、仮に、その中に「初めて法に入る者」だとか、「道を体得できているようで、できていない者」がいた場合、道を得た者たちならば、お釈迦様に代わって、四諦八正道(したいはっしょうどう)の真理・み教えを説いて、法に入らせることができるということをお釈迦様にお伝えくださっているのです。弟子たちが間もなく入滅せんとするご自分の代行ができるまでに成長したお姿に触れたお釈迦様のお気持ちはいかばかりか。それは、お釈迦様にとって、うれしく、心強いことはないでしょう。悟りの道を歩んでこられたお釈迦様にとって、何よりもの人生のプレゼントだったかもしれません。計らずも本日は「母の日」ですが、親にとって、この成長した姿こそ、何物にも代えがたい最高のプレゼントなのではないかという気がします。それと同じことではないでしょうか。

こうした師弟関係には、長年の信頼関係によって培われた“阿吽の呼吸”とも言うべき心の通じ合いが垣間見れます。そして、これぞ、まさに「感応道交(かんのうどうこう)」ということではないかという気がします。こうした釈尊教団における師と弟子の心の通じ合いを、私たちも日頃の人間関係の中で少しでも築き上げていくことができたらと願うものです。