第91回「諸行無常の体得 ―他人事ではなく、我が事として―

汝等比丘(なんだちびく)悲悩(ひのう)(いだ)くこと(なか)れ。()し我れ世に住すること一劫(いっこう)するとも、
会うものは()(まさ)に滅すべし。会うて(しか)も離れざること(つい)に得べからず。

迫り来る死期を悟りながら、身心を蝕む病魔による苦しみは想像を絶するものではないかという気がします。しかし、それでも衆(その場に集いし者たち)のために、「大悲心(だいひしん)を以て」、お釈迦様は最期の最期の説法に臨もうとなさいます。“最期まで道に生きる”―これぞ道の人の最期のお姿なのでしょう。それゆえに、これから始まるお釈迦様のお言葉は、これまで以上に心して読み味わってまいりたいものです。

「汝等比丘、悲悩を抱くこと勿れ。」これは、先に示した状況下において、お釈迦様が開口一番におっしゃったお言葉です。「自分との別れが訪れようとも、泣き悲しんだり、悩み苦しんだりする必要はない。」とお釈迦様はおっしゃっているのです。「若し我れ世に住すること一劫するとも」とあるのは、「仮にお釈迦様のご生涯が永遠に続くものであったとしても」ということです。「劫」というのは、「非常に長い時間」を意味するもので、仏教では時間の単位を表す言葉として用いられるものです。かりそめにも、人間のいのちが永遠のものであったとしても、「会うものは亦た当に滅すべし」とお釈迦様がおっしゃるように、どんないのちも必ず滅するときがやって来るというのです。永遠に生き続けるいのちなど存在しないのです。「いのちある全ての存在は生成すれば、変化を繰り返し、やがて滅していく」ということこそが、この世の確固たる道理であるというのが、最期の最期の説法において、お釈迦様が最初にお示しになったことなのです。すなわち、お釈迦様は「諸行無常」という、この世の道理を強くお示しになっているのです。そして、そうしたこの世の道理の根拠となるのが、「会うて而も離れざること終に得べからず。」です。「どんないのちも確実に最期を迎える」ということです。

今回の一句を通じて押さえておきたいのは、お釈迦様のみ教えを学ばせていただく上で、こうした「諸行無常」の道理こそを、何よりも体得できるようになることが肝心であるということなのです。「諸行無常」の体得とはどういうことなのでしょうか。それは“我が事として捉える”ということです。つまり、“自分もいつかは死ぬいのちを生かされている”ということを自覚し、自らのいつか訪れる死を覚悟しながら生きていくということなのです。

人間は見ず知らずの人間の死に対しては、ほとんどの場合、他人事であるかのように、さほど関心を示すことがないように見受けられます。ところが、最愛の人との別れの場面では、悲しみの涙を流します。まさに「四苦八苦(しくはっく)」における「愛別離苦(あいべつりく)」ということでしょう。こうした最愛の人との別れを受け止めていく力を持つことも、私たちが生きていく上で大切なことです。

そうした他者の死に対しては、相手との関係性の強さに比例するかのように、悲しみの度合いにも違いが生じてしまうのですが、いざ、我が身に死期が迫ったと感じたとき、私たちはどんな心境で、現実と向き合うのでしょうか。私は今、ご縁があって、年に2回の健康診断を受けることができる環境に身を置いていますが、30歳半ばを過ぎた頃から、生活習慣病など、健康に気を遣わなければならないと感じるような検査結果や医師の診断をいただたくようになってきました。それまで健康や病気のことなど、あまり気にかけることはなく、どちらかと言えば無関心であっただけに、医師から聞いたことがないような話をお聞したり、見たこともないような検査結果を目の当たりにしたとき、ふと、「死」の予感が過ぎって、青ざめたことさえありました。

幸いなことに、これまでのことは、全て取り越し苦労でしたが、お釈迦様がおっしゃるように、人間はいつかは死にます。今は元気だと思って過ごしていても、気づかぬうちに病魔が我が身を蝕んでいたなどという話は世間には五万とあります。そうした状況を他人事ではなく、我が事として捉えたときにどう生きていくのか―?お釈迦様は仏のみ教えに従い、仏の道に生きて、少しでも仏に近づいて生涯を全うすることをお示しになっています。そして、それが、いつかは死ぬいのちであることを自覚し、死の覚悟を持って生きていくということなのです。