第92回「お釈迦様の愛語 −“自利利人(じりりじん)の法”を具足(ぐそく)する人々へ−

自利利人(じりりじん)の法は皆具足(みなぐそく)す。()し我久しく住するとも更に所益(しょやく)なけん。

鈴木氏(仮名)は38歳の若さで妻子を遺して突然死なさいました。あまりに突然過ぎた最愛の人との別れに、ご家族は幾度も涙を流しました。そして、今、周囲の人々と支え合いながら、辛く苦しい現実を少しずつ受け止めようとしています。

今から50年前、山田氏(仮名)は同じような悲しい出来事を体験なさいました。2人の子どもと義理の親を抱え、山田氏は必死に働いて子どもを育てました。子どもたちは立派に成長し、それぞれ独立して、一生懸命生きています。また、義理の親の介護にも尽力され、その最期を看取りました。あれから50年。昭和・平成を経て、時代は令和。この間、山田氏は最愛の連れ合いのご供養を欠かすことなくお続けになり、過日、50回忌のご法要を無事にお勤めになりました。

これらは「諸行無常」という、この世の道理に直面した方々の体験談ですが、果たして、もし、私たちが同じようなことを体験することになったとき、どのように受け止めるのでしょうか。難解と思われがちな仏教の中でも、「万事が変化し、生成消滅を繰り返している」ことを指し示す「諸行無常」というみ教えは、比較的、共感しやすいがために、理解するのは、さほど難しいことではないように見受けられます。しかし、この現実が我が身に引き起こされたとき、それを一体、どれだけの人が我が事として受け止めていけるのでしょうか。そうなると、「諸行無常」を理解することは、決して、容易くないことに気づかされます。『「諸行無常」の道理など簡単に理解できる』などと思っているうちは、所詮は、他人事としてしか捉えられておらず、お釈迦様が我々に願うことのほとんども体得・理解できたとは言い難いことを、肝に銘じておくべきでしょう。

「諸行無常」のみ教え一つ採ってみても、辛い現実、不都合な出来事、そうした自分にとってマイナスに映る現実に対して、そこから目を背けることなく、どんなことでも受け止めていく力を持つことは、私たちが“忍土(にんど)”たる苦悩多き娑婆世界に生かされていく上で、決して、外せません。そうした力を身につけていく上で、お釈迦様のみ教えを理解・体得していくことが大切です。それは、自らお釈迦様のみ教えに従って日々を過ごす中で、身についていくものなのです。

そうしたお釈迦様のお悟りを追求して、精進していくことが「自利」です。そして、自利によって、周囲のいのちに心を配り、皆が一人残らず幸せをかみしめられるような言葉や行いを提示していくことを「利人」と申します。観音様(観世音菩薩様)やお地蔵様(地蔵菩薩様)を始めとする「菩薩様」という仏様は、「上求菩提(じょうぐぼだい)」と「下化衆生(げけしゅじょう)」の両者を自らの役目とする仏様です。前者が「自利」であり、後者が「利人」ということなのですが、大悲心(だいひしん)を以て説法をなさっているお釈迦様は、今、この場に集いし者たちは、こうした「自利利人の法」を具足している(身につけていること)と、断言してくださっているのです。と言うことは、アヌルッダ始め、今、病床に臥せるお釈迦様の元に集いし者たちは、「自利利人の法を具足し、仏になった者たち」であるとお釈迦様がはっきりと証明してくださっているというのです。

そんな仏に成った者たちだからこそ、「若し我久しく住するとも更に所益なけん」とお釈迦様はおっしゃるのです。「もはや仏に成っている者たちが大勢いる中で、自分は役目を果たし、これ以上、この娑婆世界に生かされていく必要はなくなったのだ」と。自らと共に仏道修行に励んできた者たちを仏として認め、この先、自らに代わって、仏の役目を果たしてくれる大切な存在であると、期待を込めて、お釈迦様はエールを送っているのです。これぞ、お釈迦様からお弟子様たちに発せられる最高の「愛語」ではないでしょうか。まさに、この一句は、感極まる一句です。

「諸行無常」という道理を我が事として受け止めていくことを、お釈迦様は最期の最期の説法の中で、強く我々に願っています。その強い願いを今一度、しっかりと受け止めながら、日々を過ごしていきたいものです。