第93回「仏法の展転(てんでん) 仏道修行者の役目―

(まさ)()すべき者は、()しは天上人間皆悉(てんじょうにんげんみなことごと)(すで)に度す。
()
の未だ度せざる者には、皆()(すで)に得度の因縁を()す。
自今巳後
(じこんいご)
、我が(もろもろ)の弟子、展転(てんでん)して之を行ぜば、
即ち()れ如来の法身常(ほっしんつね)(いま)して(しか)も滅せざるなり。

迫り来る死を目前に大悲心(だいひしん)を以て語られる愛語の説法―
仏遺教経を読み味わいながら、お釈迦様の最期のご説法を一言で表すとすれば、このように表現できるのではないかという気がします。

そんな最期のご説法において、お釈迦様はおっしゃいます。「応に度すべきものは、若しは天上人間皆悉く巳に度す。」と。「天上人間」とあるのは、「天上界と人間界」を指しています。修証義第2章の中では、“人天(にんでん)”、という言葉で表現されていました。ここでは、お釈迦様は「この世に存在する、生きとし生ける全てのいのちに、余すことなく法を説き、その苦悩に救いの手を差し伸べてきた。」とおっしゃっているのです。

そして、お釈迦様は「其の未だ度せざる者には、皆亦た巳に得度の因縁を作す。」とおっしゃいます。現世において、ご自身が救いの手を差し伸べることができなかった者たち、すなわち、後世に生きる人々に対して、「仏のみ教えとのご縁を育み、苦悩から救われる場を作った。」と、お釈迦様はおっしゃっているのです。

道元禅師様は「典座教訓(てんぞきょうくん)」の中で、「世尊(せそん)の二十年の遺恩(ゆいおん)」という言葉を用いていらっしゃいます。これは、お釈迦様が100歳までの寿命を与えられていたのを、自ら20年縮めて、後世の人々に施してくださったという仏教の世界における伝説です。これが指し示すものと、今、取り上げさせていただいているお釈迦様のお言葉とが見事に合致していることは、明白です。お釈迦様は自らの20年分のご生涯を、後世に生かされるであろう多くのいのちに細かく細分化して施すと共に、そこに法を遺して、仏とのご縁をつなぐ土台作りをなさって、この世でのお役目を終わろうとなさっているのです。

そして、もう一つ、そんなお釈迦様亡き後に、法を後世に伝えるという大役を担う存在として、お釈迦様が期待を寄せるのが、「我が諸の弟子」です。「展転」とあるのは、反物を転がすと、段々と拡がっていくように、お釈迦様のみ教えが、あちこちに拡まっていく様を表したものです。仏法の展転こそが、遺されたお弟子様たちの仕事でなのです。それだけではありません。今、ここに生かされている我々出家者もまた、お釈迦様のみ教えを受け継ぎ、出家の立場を名乗るのであれば、「展転」ということが、大切な役目の一つであることは同じであり、今一度、そのことを再確認しておきたいところです。

果たして、我々出家者は、日常生活の中で仏道修行に励み、その生き様を存分に発揮しながら、世間にお釈迦様のみ教えを拡めていると言えるでしょうか。それが出家者の存在意義であるとすれば、今、社会は、それを求めているのではないかという気がします。果たして、そんな社会の求めに応じた日常を送れているのだろうか―?「自らの襟元を正さなくてはならない」と強く意識する一句です。

そんなお釈迦様が願う「展転」という出家者の役目が娑婆世界において存分に発揮されているならば、「如来の法身常に在して而も滅せざるなり」とあるように、偉大なるお釈迦様の存在が娑婆世界に常に存在し、滅して消えることはないというのです。「法身」は、お釈迦様のお姿の中でも、「永遠の真理そのもの」を言い表すものです。道元禅師様が「教授戒文(きょうじゅかいもん)」の中で、「不殺生戒」とは、「仏の慧命(えみょう)嗣続(しぞく)することである」とお示しになりましたが、我々出家者がお釈迦様のみ教えを滅ぼす(殺す)ことなく、自ら修行して、娑婆世界の中で生かしながら、後世の人々に伝えていくことが、法身を「殺生をしない」という生き方であり、「仏の慧命を嗣続する」ということなのです。

お釈迦様の大悲心を以て語られる愛語のご説法は、その場にお集まりの方々のみならず、後世に生かされる天上人間界全てに生かされる人々をも対象とした「永遠なる絶対不変の真理」なのです。そのことを今一度押さえ、仏のみ教えを味わい、修行させていただきたいものです。