第3回「是諸衆等(ぜしょしゅとう)“発心(ほっしん)”して一器の浄食を奉持する生き方を―

是諸衆等(ぜしょしゅとう)

発心(ほっしん)して一器の浄食(じょうじき)奉持(ぶじ)して。(あまね)十方窮尽虚空(じっぽうぐうじんこくう)
周遍法界微塵刹中
(しゅうへんほっかいみじんせっちゅう)
所有国土(しょうこくど)の一切の餓鬼(がき)に施す。

これより始まりますのは、「招請発願(ちょうしょうほつがん)」と呼ばれる箇所で、和文で表記されています。前段の「奉請三宝(ぶしょうさんぼう)」において、お釈迦様や観音様、阿難尊者(あなんそんじゃ)様(お釈迦様の高弟のお一人)といった、仏法僧の三宝を道場にお招きし、そのみ教えを請うことを願いました。ここには亡き人々にお招きした仏のみ教えを供養することによって、あらゆる世界(十方世界・尽虚空界)に存在する全てのいのち(存者も死者も)が仏縁を育むと共に、彼らを余すところなく救っていきたいという強い願いが込められています。

そうした自分のみならず、周囲に対しても広い視野を以て、救いの手を差し伸べていくことを誓願するのが「発心」(心を(おこ)す)です。これは、今までも他の経典にも登場しましたが、「仏のみ教えに従って日々を過ごす決意をすること」です。その具体的な内容は多岐に渡りますが、一つには、今、提示されている「自分の周囲に存在するあらゆるいのちに目配り、心配りをして、支え合い、助け合っていくこと」であると言えるでしょう。

次に「一器の浄食を奉持する」ということについて触れてみます。ここでは「(じき)」(あらゆるいのちを生かし、救う存在)を仏のみ教えにたとえ、「浄食」と表現されています。そんな「浄食」を器一個分程度の分量でいいから、確実に周囲に施すことを意識していこうという声を発しているのが、「一器の浄食を奉持する」です。こうした甘露門における「招請発願」の冒頭の一句に触れるとき、是非、我々も発心して、自分と周囲のつながりを再確認し、支え合い・助け合いの心を以て、周囲と関わっていきたいものです。

そんな浄食を「普く十方窮尽虚空。周遍法界微塵刹中。所有国土の一切の餓鬼に施す」、すなわち、この世の全ての存在に目を向けながら、誰一人として取り残されることなく施してみようと呼びかけているのです。「餓鬼」という言葉が使われていますが、これは、「前世の行いによって、餓鬼道という苦しみの世界に至った者」という通例の解釈をそのまま当てはめるよりも、誰しも大なり小なり過ちを犯したことがあることを踏まえた上で、「自分の過去の行いによって今がある全てのいのちある存在」という形で捉え、それらに浄食を施すと解釈していけばよろしいかと思います。大切なことは、「餓鬼」という言葉が指し示しているのが、限定的な別の世界や他者のことを言っているのではなく、“自分のこと”であると、謙虚に受け止め、仏縁を育みながら、仏に近づいていく姿勢を持つことなのです。

そのことをしっかりと踏まえながら本文を読み味わってみますと、ここでは「あらゆる世界の亡き人も生きている人と同じように、人間も動物も小さな虫も一輪の花も、ほんの一個のコップや、道端の石ころに対してでさえも、全ていのちを有した存在として、承認≠オていきましょう」と声を発していることに気づかされます。これは「教授戒文」において学ばせていただいた“周囲と(ひとつ)になる”ということにも通じます。すなわち、“自分と相手と一体化して、どんな存在とも差別なく、大切に関わっていく”ということが説き示されているのです。この点を、今一度、自分たちの日常を振り返りながら、少しでも毎日の生活に反映させていけたらと願うところです。

ちなみに、冒頭の「是諸衆等」は「全ての存在へ」という解釈でよろしいかと思います。「是諸衆等」に対して、「発心して、一器の浄食を奉持する生き方」を願っているのが、今回の一句なのです。