第6回「自他共に作佛(さぶつ)していく ―持続可能な仏の道を歩む―

亦願(またねがわ)くは汝が身。()呪食(しゅじき)(じょう)じて、苦を離れて解脱(げだつ)し、
天に生じて楽を受け、十方の浄土も(こころ)に随って遊往(ゆおう)し、
菩提心を発し菩提道を行し、當来(とうらい)作佛(さぶつ)して、
(なが)退転(たいてん)なく(さき)(どう)()る者は誓って相度脱(あいどだっ)せんことを。

前回、「持続可能な開発目標」を謳う「SDGs」について触れました。2015年(平成27年)の国連サミットにおいて、全会一致で採択された「SDGs」が掲げる17の目標の根底には、“誰一人として取り残すことがないように”という誓願が流れています。この誓願とお釈迦様のみ教えはピッタリと合致しており、「甘露門」を読み進めていく中でも、前回の“(あまね)く皆飽満せんことを”など、「SDGs」との共通点に気づかされます。

そうした「SDGs」にも相通ずるみ教えが、今回の一句においても引き続き提示されています。まず、冒頭の「呪食」から読み進めてみます。これは「食物の功徳」のことです。「甘露門」では、“食=仏法”という図式が存在していることは、すでに確認済みです。これは、飢えの苦しみから人々を救い、人々の身心の健康を養う“食”は、我々人間が抱える人生の様々な苦悩を解決してくれる“仏法”のごとき存在であるという解釈です。それを呪食という言葉で捉えているわけですが、我が身が仏法たる呪食によって、「苦を離れて解脱し(あらゆる苦悩から離れると共に、仏に近づくこと)」、仏と成って、仏の日常を過ごしていくことができるというのです。それが「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」の意味するところです。

そうした仏の日常を過ごすことができる者にとって、その心がけは「菩提心」であり、その生き様は「菩提道」ということになるでしょう。これは、仏の心遣いと仏のモノの見方・考え方による仏の生き方ということです。それらが身についていれば、當来(将来・未来永劫)も仏なのです。「作佛」というのは、「佛と作る」ということで、「成仏」を意味しています。

こうした成仏(作佛)について申し上げるならば、常に仏であることを心がけ、仏が指し示した道を同じように歩んでこそ、仏として存在し続けられることは、言うまでもありません。こうした一生涯に渡って、怠けることなく、仏の生き方を心がけていくことを言い表している言葉が「退転なく」です。「不退転(ふたいてん)」という禅語がありますが、それと同じです。そんな「不退転」を心がけていくと、「度脱せん」とあるように、度脱(煩悩を断つこと)につながっていくというのです。

ここで注目しておきたいのが、「相度脱」の「相」です。三毒煩悩の調整ができるようになることを意味する「度脱」という言葉に、「自他共に」とか、「お互いに」ということを意味する「相」という文字が付されているわけですが、これは何を意味しているのでしょうか。それは仏法によって、苦悩から救われ、仏に近づいていくことを心がけていくとき、自分だけが楽を受けるようなことは慎むことを説いているのです。“普く皆飽満”が指し示すように、皆が救われ、皆が作佛できるよう、仏の生き方を持続していくことが「甘露門」を始めとする仏教の誓願なのです。その誓願が誰一人として取り残されることないよう、全てのいのちに伝え、シェア(共有)していくことよって、自他共に作佛していくことができるのです。

そんな仏教の誓願が「SDGs」が謳う「持続可能」という言葉とつながっていけるよう取り計らっていくのが、私たち宗教者の役目であることは言うまでもありません。また、皆が“自分たちのできる範囲で(持続可能な範囲で)”、仏のみ教えと共に生きる道を歩み続けていけるよう留意しておくことも、自明のことであります。