第8回「法の廻施(えせ)・法のシェア」

(ねがわ)くは此食(このじき)を施す、所生(しょしょう)の功徳。
普く以って法界の有情に廻施(えせ)して、諸(もろもろ)の有情と平等共有(びょうどうぐう)ならん。

これまで「甘露門」では、私たち一人一人が“仏のみ教えに従って、仏の道を歩んでいくという「不退転(ふたいてん)」の生き方”によって、自分も周囲も共に仏に近づいていけるようにしてくことが大切であるということが説き示されてきました。

この“自他共に仏に近づく”ということを、前段では“自他共に作佛(さぶつ)する”という言葉で表現されていましたが、それを今回の一句では、「諸の有情と平等共有ならん」という言葉で言い表されています。仏の生き方を修行し続けていくことによって体得した食(=法)の功徳というものは、自分だけで独り占めするのではなく、さらに周囲に廻施(施し(めぐ)らせていくこと)して、皆で平等に共有していこうというのです。すなわち、自らが体得した法は、たとえほんのわずかな量であったとしても、周囲に施していく方法を模索し、心がけていくことによって、普く一切全ての存在が共有していくことが大切であるということなのです。まさに法は施し合い、シェア(共有)しあうものだというのです。

その理由は何なのでしょうか。それは、法の世界において、そこに存在する全てが「平等」であるからに他ならないからです。法の世界には競争がありません。そこでは、周囲と闘いながら、少しでも多く法を体得したものが勝利を得るという図式など存在しません。なぜならば、よいものを自分だけのものにしていても、周囲が救われることがないからです。よいものは周囲に平等に分け与え、シェアしていくのが仏の世界なのです。それはあたかも、飢えに苦しむ人々が等分された食料を口にして、皆が空腹の苦悩から救われるようなものなのです。

そんな仏の世界に対して、私たちの生かされている娑婆世界では競争や差別が存在し、勝者と敗者、救われるものとそうでないものが生じてしまいます。だから、仏の世界を見習って、少しでも近づいていけるようにしていくことを目指すのです。

周囲に平等に分け与え、シェア(共有)してこそ、競争や差別が存在する娑婆世界が仏の世界へと近づいていくのです。そして、そうした「差別なく平等に共有する」ということは、これまで触れてまいりました「SDGs」が謳う「誰一人として取り残されることのない」という理念・思想とも合致しています。そんな「法の廻施・法のシェア」を意識しながら、仏のみ教えに従って、毎日を過ごしていきたいものです。