第9回「好悪の分別を断つ」
無上菩提
仏法の廻施(仏法のシェア)によって、有情(あらゆるいのち)に救いの手を差し伸べ、誰一人として取り残されることなく仏の世界にお導きすることが仏教の誓願であり、「甘露門」の目指すところです。「諸の有情と共に、同じく此の福を将って、尽く将って」とあるのは、そうした仏教の誓願や福徳というものを、どんなときも忘れずに掲げ持(将)って、有情と共に仏の生き方を行じていくことを意味しています。
そうすることによって、一切有情、自他共に仏の智慧を開くことを願うことを意味しているのが、「真如法界、無上菩提、一切智々に廻向して」です。「真如」は、「かくの如き真実」ということで、「真如法界」となって、「法界(この世の一切の世界)における、ありとあらゆる真実の姿」ということを指します。
真如法界が指し示す‟真実の姿”とは、どういったものなのでしょうか。それは、それぞれが絶対の存在価値を有した、たった一つのかけがえのない存在であるということです。自分たちの周囲に存在している有情の全てがたった一つしかない、尊い存在であることは否定のしようがない事実です。それなのに、私たちは、そんな有情に対して、自分の好みで関わろうしてしまいます。そのために、ついつい自分の好みに左右されて、好悪の分別を以て関ってしまうのです。すなわち、好きと捉えた有情とは大切に関わりるのに、嫌いと認識した有情に対しては、ぞんざいな態度で接してしまうという、相手を見て、差別的な関わり方をしてしまうのです。
しかし、どんなに自分が苦手としている存在であれ、自分が嫌っている存在であれ、その存在に救われ、救われている者もいます。すなわち、自分にとっては無価値に見えるものも、他者にとっては自分を救い、支えてくれる尊い存在であるということが起こり得るのが、この娑婆世界なのです。
たとえば、会社では嫌味で部下に煙たがられているような上司でも、家に帰れば父親として、妻子を養い、その存在によって、家庭が成り立ち、子どもたちは適切な教育を受け、家族が平穏に暮らしていけるという事例もあります。部下にとっては嫌な上司でも、家庭では、その上司を父親として求める家族がいるのです。これと同じように、ある場面においては、嫌な存在も、別の場面では大切な存在であるということは、随所にありえます。ですから、どんな存在であっても、好悪の情を排して、平等な視点を以て、大切に関わっていくことを意識して毎日を過ごしていくことが仏教では求められていくのであり、それが「真如法界」における生き方なのです。そして、そうした仏の最上の悟りやみ教えということを意味する言葉が、「無上菩提(最上のお悟り)」であり、「一切智々(一切の智慧の中でも最上の智慧)」です。
私自身、多少なりとも、好悪の分別を以て有情と関わっている面があることは認めざるを得ませんが、「真如法界、無常菩提、一切智智に廻向する」ことを意識しながら、好悪の分別を断ち、万事に価値を認めていけるように精進していきたいものです。自分が好悪の分別を引き起こさないようにするのはもちろんのこと、たとえ、相手が自分に対して、好悪の分別を以って関わってきたとしても、そのことを恨んだり、腹を立てたりするのは慎みたいものです。それはバカバカしいことであり、何の利益もないことです。自分自身が好悪の分別を断って毎日を過ごすことによって、少しでも仏に近づいていくことを目指していきたいものです。