第16回「蓄積の戒め ―“改正社会福祉法”に見る釈尊のみ教え―」
そもそもお釈迦様のみ教えは、世俗から離れたものであることを念頭に置く必要があります。曹洞宗の開祖・道元禅師様も「僧侶(出家者)は世俗に背くべきなり」とおっしゃっておられますが、家を出て、世間から離れて生きていくから出家なのです。そして、世間と一線を画し、出家の道一筋に生きる僧侶の姿を見て、世間の生活に疲れた人々が心のやすらぎを求めてやってくるというのが、釈尊教団の構図だったのではないかと思います。
そうしたお釈迦様のみ教えに触れていくと、ときに世間では常識と考えられていることとは間逆のものも存在します。今回の一句は、まさにその典型とも言うべきもので、浄戒を持つ(お釈迦様のみ教えを護り、それに従って生きていくこと)上で、多少のいただきものをしても、それを蓄えてはならないというのです。
このみ教えを私たちの社会通念から見た場合、たとえば、企業経営の場面では、不測の事態に備え、“供えあれば憂いなし”と言わんばかりに、余剰金を積み立てるなどして将来に備えることがあったりしますが、これは、お釈迦様の観点から見ると、戒めるべき行いだというのです。
なぜ、お釈迦様は蓄えを戒めるのかといえば、蓄えがあると、蓄えることが目的となり、苦労して蓄えたものに捉われてしまうからです。モノを所有することはモノに対する執着を生み出します。物欲は自分でコントロールしない限り、際限なく拡大し、ときには周囲も巻き込んで、その苦しみを深めていきます。そして、諸行無常という時間の流れの中、変化を余儀なくされる私たち人間は、いくら苦労して得たものもあの世まで持っていくことはできません。だから、お釈迦様は、今、自分が本当に必要な最小限のモノだけを所有することで、自らに沸き起こる物欲をコントロールしてこられたのです。
経営の世界等、世俗における蓄積という考え方と出家者であるお釈迦様の思想は真っ向から対立するものですが、どちらが正しいとか間違っているという議論は不要です。大切なのは、世俗という場において、「蓄積すべからず」という思想を考えてみた場合、人様からいただいて貯めたものであれ、自分たちで苦労して得たものであれ、それらを自分たちの利益追求だけに使うのではなく、皆のために、すべてがよい方向に進めるような使い方を目指すべきであるということです。
社会福祉の世界では、平成29年度より改正社会福祉法が執行されます。この背景の一つには、余剰金の内部留保が目立ち、元来の社会福祉事業によって世間に貢献するような事業が展開されていないという指摘があったからです。社会福祉の本来の姿に立ち返ろうとすることを目的とした今回の法改正は、まさに世俗における「蓄積すべからず」を体現したものではないかという気がします。