第11回「“疾()く成仏”を心がけて-年齢と人生経験を積み重ねていく-

願わくは()の法に乗じて()く成仏することを得ん。

「お釈迦様のみ教えを意識しながら、少しでも早く成仏(仏に成れる)ように」というのが今回の一句の意味するところです。これぞ仏教の願いを一言で表現したものであり、是非、しっかりと心に留めて、毎日を過ごしていきたいものです。

とは言え、「疾く成仏」というのは、今日意識して、明日すぐにできるものではありません。仏道修行を根底に置きつつ、様々な経験を積み、年齢を重ねながら、私たちは仏のみ教えを理解・体得していけるように思います。

昨日(8月21日)は私の長男(小学校5年生)の11歳の誕生日でした。普段から、些細なことで姉や弟と喧嘩になることが多い長男。「せめて今日の誕生日くらいは喧嘩はやめよう」と3人に言いました。その結果、いつもから見れば、喧嘩する場面は激減したのはよかったのですが、いつもの習慣ゆえか、言い争いに発展する場面が一、二度、ありました。

そんな子どもたちの喧嘩を、自身の経験も踏まえながら考えてみたとき、喧嘩(争い)が発生するのは、自分の利益のみを優先し、相手に対する配慮やがないのが最大の原因のように思います。そうした争いというものに対して、仏教では周囲とのつながりを意識し、周囲に配慮した言動の提示を説きます(【例】布施(ふせ)愛語(あいご)利行(りぎょう)同事(どうじ)の「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」など)。そんなみ教えを心に留めながら毎日を過ごしていくことが「成仏」につながっていくのです。そして、そうやって、次第に争いのない穏やかな日常生活というものが実現できるようになっていくのです。

今は喧嘩が絶えぬ子どもたちも、大人になるにつれて様々な人生経験を積み重ねながら成長していきます。そうした成長過程の中で、たとえ年齢を重ね、他者が経験しないような貴重な人生経験を重ねた人間であっても、周囲の不幸を願い、争いを仕掛けるような言動を取っているようでは、「成仏」とは言えません。年齢や経験を重ねながら、仏に近づき、仏のごとき言動を提示できるようになっていくのが、「成仏」なのです。

先日、インターネットの「文春オンライン」で俳優・柴田恭兵さんの素晴らしい記事が出ていました(下記URL参照)。恭平さんはテレビドラマ・「あぶない刑事」の大下勇次役で著名な名優です。

https://news.yahoo.co.jp/articles/35e1791f7a680ad88ba986803fd0663d28908d56?page=1

恭平さんは去る8月18日に70歳のお誕生日をお迎えになったとのことです。そんな恭平さんが55歳のときに肺がんを患い、療養生活に入られました。術後の経過がよかったことで、2ヶ月での復帰を果たした恭平さんは、「どんな芝居をしても「これが柴田恭兵であり、それ以上でも、それ以下でもない。とにかく全部出し切ろう。」と思って演じるようになったと当時を振り返っていらっしゃいます。

また、2013年(平成25年)、62歳を迎えようとしていた恭平さんはインタビューで、『60代となって、いい意味で肩の力が抜けて、おもしろくなってきた。昔ならば、若い共演者たちの前でカッコをつけて、どうだと言わんばかりの演技をしていたと思うが、今は「こんな感じですが、いかがでしょうか」といった感じで、ありのままの自分を楽しめるようになった。』とおっしゃっています。

こうした心境の変化というものが、成仏にも通ずると共に、自らの道を成就していく過程において芽生えてくるものなのでしょう。恭平さんの若き日々の考え方は、誰しも経験する(あるいは経験のある)ことで、共感を覚えます。私自身も、30代の半ば、布教の場が増え、多少は自分の布教活動が評価されてきたかなと感じたときに、カッコをつけて、これでもかという布教をするようになっていた時期がありました。そんな布教の場もコロナ禍によって激減した今、恭平さんがおっしゃるような、「自分の持てるすべてをさらけ出し、『こんな感じでいかかがでしょうか。』という姿勢を以て臨ませていただくことの大切さ」をヒシヒシと感じています。

新型コロナウイルス第5波真っ只中の今、これから布教の場がどうなるのかは全く見通しが立たない状況が続いていますが、それでも「疾く成仏」を心がけながら、謙虚な気持ちで年齢と人生経験を積み重ねながら、少しずつ仏の生き方を身につけていきたいものです。