第12回「雲集鬼神招請陀羅尼(うんしゅうきじんちょうしょうだらに) ―“離執(りしゅう)”の生き方を目指して―

曩謨歩布哩(のうぼぼほり) 迦哩多哩(ぎゃりたり) 怛他蘖多也(たたーぎゃたや)

これまで「和文」の形態で示されてきた「甘露門」ですが、ここからは「真言(しんごん)」に変わります。「真言」とは、「(じゅ)」と訳し、「悪を断ち、善を修する≠アとを説いた真実の言葉」を指します。この真言の中でも、比較的長文のものが「陀羅尼(だらに)」と呼ばれ、曹洞宗では一般的な読経供養において、「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」が読誦されたり、御祈祷(ごきとう)において、「消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)」といった陀羅尼が読まれたりします。

「甘露門」において、和文から真言に変化していくのは、耳で聞いていると、非常にリズミカルで、テンポもよく、まるで場面の変化に富んだ演劇のような印象を覚えます。こうした変化に富んでいるところが「甘露門」の特徴であり、魅力的な面でもあるとも思っています。

そんな「甘露門」で初登場となる今回の真言には、「雲集鬼神招請陀羅尼」というタイトルが付されています。これには「あちこちに散り散りになって存在している鬼神たちを雲を集めるがごとく道場に呼び集め、仏のみ教えを説いて、供養する」という意味があります。

そんな陀羅尼の内容が「曩謨歩布哩 迦哩多哩 怛他蘗多也」です。これは「帰命(きみょう)離執(りしゅう)如来(にょらい)」と訳し、「あらゆるものに対する我執を離れた如来(お釈迦様)に帰依することができるならば、慈悲心が生ずる」という意味があります。すなわち、各種鬼神たち始め、人々に「離執」という生き方を勧めると共に、そうした生き方を指し示すお釈迦様への帰依を願うのが、「雲集鬼神招請陀羅尼」なのです。

我々の日常生活の中には様々な苦悩があります。職場や家庭など、様々な場において、人間関係などの問題で苦悩する人々のお話をお聞きすることがありますが、総じて、苦悩を生み出す原因となっているのが「我執」です。たとえば、相手を悪しき存在と決めつけ、攻撃のターゲットにしている人がいます。この“ターゲットにする”というのが、“自分が発する執着”、すなわち、「我執」なのです。こうした我執がある限り、いつまでも相手を憎しみの目で捉え、その見方が変わることはありません。すなわち、我執から離れ、捨て去ることがない限り、いつまでも悟りへの道の妨げるだけなのです。

それを踏まえ、「雲集鬼神招請陀羅尼」を通じて、自分自身の我執というものについて、よくよく振り返り、如来(仏様)とのご縁を深めながら、「離執」の日々を目指していきたいものです。