第16回「毘盧舎那一字心水輪観陀羅尼(びるしゃないちじしんすいりんかんだらに)―“誰一人として取り残されることがないこと”を願って―

曩莫(のうまく) 三満多(さんまんだ) 没多南鑁(ぼだなんばん)

一杯の茶碗に盛られた飲食物や一椀の水を、空腹に苦しむ人々に差し上げて、飢渇の苦悩を救うように、日常生活の中で様々な苦悩を抱える人々に、お釈迦様のみ教えを施すことによって、その身心を救うことが仏教の悲願であり、この「甘露門」の目指すところです。今回、登場する五つ目の“陀羅尼”である「毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼」もまた、そうした願いを込めて唱えられる陀羅尼です。ここには、一椀の飲食物や水を、あたかも仏のみ教えの如く捉えながら、苦悩に満ちた人々に施し、その苦悩を取り除こうとする心持ちが込められています。これは、言わば、周囲の全てのいのちに対して、「誰一人として取り残すことなく救い上げる」ということでありましょう。そういう意味では、この陀羅尼は、かの「SDGs」にも通ずるみ教えでもあるとも言えるのです。

「毘盧遮那」とあるのは、葬儀においてお唱えする「十仏名(じゅうぶつみょう)」にも登場する仏様で(詳しくはこちらをご覧ください)、華厳宗がご本尊として信仰する無垢清浄なる仏様のことです。毘盧遮那仏の解釈は諸説があるため、一定してはいませんが、その役割が、あらゆる場所にあって、そこに存在するいのちに仏法を説いて、苦悩を救うことであるという点においては、皆の心の支えとなる仏様であると捉えることができるでしょう。

次に「一字」とありますが、これは、単なる一文字ということを言っているのではありません。たった一文字であっても、その背景に、この世に存在している全てのいのちやモノなどがあると共に、仏の悟りや禅の境地といったものまでもが含まれた非常に広大で深遠なる一文字であると捉えていくべきでありましょう。まさに毘盧遮那仏が発する仏のみ教えが込められた悟りの言葉であり、禅のみ教えなのです。

そして、「心水輪観」とあります。これは、あらゆるいのちに空腹の苦悩から救われる飲食物を施し、皆の飽満を観想することを意味しています。

こうやって仏教を学ばせていただく中で、私たちがいかに日常生活の中で、周囲のいのちに対して、自分の好悪の念に捉われて差別的な関わり方をしていくことが、残念かつ無益な行いであるかということを思わずにはいられません。誰に対しても、分け隔てなく、皆が幸せに暮らせることを願って言葉や行いを発していくことは、もはや理想論ではなく、現実の中で実践していくべきことになってきているのです。

そして、こうした考え方は、今や世界的に主流となるつつある「SDGs」の思想にも相通ずるものです。そのことを押さえ、皆が救われるように、皆が気持ちよく、楽しく過せることを願って、自身が発する言葉や行いを調え、磨いていく必要性を感じずにはいられません。

近年、コロナ禍を受けて、Zoomを用いたリモート会議の機会が増えてきていますが、先日参加させていただいたあるリモート会議において、進行役が参加者全員の意見を求めたにも関わらず、一人の参加者から意見徴収をするのを忘れるというアクシデントが発生してしまいました。会議の進行役はそのことに気づくことなく、淡々と会議を進行していたのですが、参加者の一人からそのことを指摘され、平謝りをしながら、当該者の発言を求め、その場を収めました。進行役は悪気があって、意図的にその参加者の意見を聞かなかったのか、あるいは、最初から悪気などなく、単に忘れていただけなのか、真相を追求するほどのことではないにしろ、もし、進行役のどこかに当該者に対する好悪の念があり、それが働いたがゆえの結果だったとすれば、「甘露門」における陀羅尼が指し示す「誰一人として取り残すことなく」を意識して、言葉や行いを発していくことを願うばかりです。

勿論、それは今回の事例となった進行役の人間のみならず、私も含め、全ての人に対する願いでもあります。