第20回「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)広博身如来(こうはくしんにょらい)

南無広博身如来(なむこうはくしんにょらい)曩謨薄伽筏帝(のうぼばぎゃばてい)尾布邏蘗怛羅耶(びほらぎゃたらや)怛他蘗他也(たたーぎゃたや)咽喉広大飲食充飽(いんこうこうだいおんじきじゅうぼう)

「五如来宝号招請陀羅尼」における四体目の如来(仏様)となるのが、「広博身如来」です。広博身如来は、真言密教のご本尊様である「大日如来(だいにちにょらい)」のことでもあります。

これまで登場した多宝如来(たほうにょらい)甘露王如来(かんろおうにょらい)には、人々が帰依することによってもたらされる功徳がありましたが、広博身如来を拝むことによってもたらされる功徳とは何なのでしょうか。それを表しているのが「咽喉広大飲食充飽」です。「咽喉」は「のど」のことで、私たちの喉を、あらゆる飲食物が通っていくように、大きく広げ、満足感をもたらしてくれるのが、広博身如来であると説くのです。

そもそも、「甘露門」には、「食=法」という視点が盛り込まれていました。日常生活の中で様々な苦悩を抱え、仏に救いを求めるものに対して、仏は法を施し、誰一人として取り残されることなく救い上げる存在であります。そうした仏の使命を全うし、救いを求める人々が身心共々に充満されることを願うのが広博身如来(大日如来)なのです。

前回の甘露王如来(阿弥陀如来)同様、広博身如来(大日如来)も曹洞宗では、ご本尊様として捉えていないため、曹洞宗の経典である「甘露門」に登場するのは、場違いのような印象を覚える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、どの如来様もお釈迦様が源流であり、そこから姿形を変えて、我々の眼前に現れた存在ばかりです。ということは、どの如来様もお釈迦様につながっていて、どの仏様を拝むこともお釈迦様に帰依する仏教徒の姿として否定すべきものではないということになるのです。

ですから、現実には阿弥陀如来は主に浄土真宗が、大日如来は真言宗が主としてご本尊として拝みますが、自分の宗派の仏だから敬い、そうでなければ敬わないという考え方は慎むべきものです。何よりも自分の宗派の仏様に帰依する姿勢を大切にしながら、それ以外の仏様にも分け隔てなく帰依していけばいいのです。そうする中で、身心が調い、穏やかな毎日を過ごせるようになっていくのです。それが我々が仏に救われたということなのです。