第21回「
今回登場する「離怖畏如来」は、「五如来宝号招請陀羅尼」における最後の如来で、五体目となる仏様です。その名が指し示すように、人々が抱える恐怖(畏れ)や不安といったものを取り除く(離)仏様が「離怖畏如来」であり、その功徳は「恐怖悉除。離餓鬼趣」とあるように、「たとえ六道世界の地獄や餓鬼等の苦しみの世界に赴くようなことになっても、どんな恐怖や不安も悉く取り除くことである」と示されています。
恐怖や不安について、私たちは日常生活の中で、どんなことに対して感じるものでしょうか?たとえば、地震や暴風雨などの自然災害がそうです。その規模が甚大であればあるほど人々の不安は大きくなっていきます。石川県内では奥能登を震源とする震度1~3程度の小さな地震が今年に入ってから頻発しています。北國新聞社の発表では、今年に入って51回目(令和3年10月31日現在)とのことで、その被害を受けている
こうして見ていきますと、私たちの日常生活には様々な恐怖が存在し、それらと関わりながら生きていかなくてはならないという現実に気づかされます。しかし、「甘露門」では、そうした不安を覚える存在に対して、お釈迦様がお示しになった
しかしながら、いざ、3.11大震災のような大災害で被災したり、凶悪な犯罪の被害者になったり、あるいは、戦禍を被るようなことが起ったりしたとき、私たちは本当に不安を和らげ、穏やかな気持ちで生きていくことができるのでしょうか。ある曹洞宗の僧侶で、3.11大震災が発生した当時、宮城県や福島県といった東北の被災地に曹洞宗管長猊下の命を受け、特別派遣布教に赴かれた方がいらっしゃいました。後日、その方は「被災地の方々に歯が立たなかった」とおっしゃっいました。大災害によって被災した現場で生きる人々の苦悩は想像を絶するものであり、その苦しみや悲しみは経験したものでなくては掴み切れないものがあること。また、同じ経験をした者が発する言葉でなくては、中々、届かないものがあるということ、私は、この二つをその方の言葉から感じました。
確かに苦悩に直面しなければわからないことはたくさんあります。我が人生を振り返ってみたとき、大震災のような想像を絶するほどの苦しみから見れば、小さな苦しみばかりが思い出されますが、そうした苦悩に直面したときに、仏のみ教えと共に生きているならば、仏のモノの見方・考え方によって、幾分にも苦悩を和らげ、多少は心穏やかに過ごせたことがあったことが思い出されます。
ここ最近、私は自分の言動が周囲の人々のお役に立てているだろうかと悩み続けていました。ところが、あるとき、「
ちなみに、「離怖畏如来」は「お釈迦様」のことでもあります。お釈迦様のみ教えを信じ、それを日常生活の中で意識して過ごしていくことが、恐怖や不安を取り除き、心穏やかに過ごしていくことにつながっていくのは確かです。今一度、確認しておきたい点です。