第22回「
施食会におけるご本尊様・「五如来様」を
そうした決意の表明としてお唱えされる陀羅尼が「発菩提心陀羅尼」となるわけですが、今まで同様、口先だけのお唱えとなることがないよう、自らの確固たる決意として、お唱えしていくことが大切であることは、もはや言うまでもありません。
「発菩提心」について、今回は曹洞宗の大本山・永平寺をお開きになった
発菩提心や諸行無常というのは、これまで様々な経典で味わってきた仏教の代表的な思想ですが、どちらも頭の中で理解するのは簡単そうに見えますが、いざ我が事として捉えていくとなると、中々、受け止めてくのが難しいことに気づかされるのではないかという気がします。ここ数日の間に、瀬戸内寂聴さんや細木数子さんといった著名な方が相次いで鬼籍に入られましたが、たとえば、こうした突然に最愛の人との別れが訪れたとき、その現実を我が事として受け止めていけるかと問われれば、決して、容易いことではないことに気づかされるでしょう。
寂聴さんや細木さんが他界された頃、私は同じように急逝なさったお檀家さんの通夜・葬儀を勤めさせていただいておりました。突然の悲しい現実を受け止めなくてはならないご遺族の心情を慮ると、辛いものがありましたが、法要や通夜説教を修行させていただき、ご遺族の皆様との対話を繰り返していく中で、次第に、ご遺族の方々が「いのちある者は、皆、いつか死ぬときが来る」ということを言葉にして発するようになっていきました。これぞ、「諸行無常」の理を我が事として受け止めるということであり、「無常を観ずる」ということなのです。そして、こうした出来事がきっかけとなって、今まであまり意識していなかったかもしれない仏のみ教えに目が向き、仏縁が育まれていくのです。それが「発菩提心」となのです。
思えば、お釈迦様も道元禅師様も菩提心を発したのは、一つには、実の父親や母親との避けられぬ悲しい別れを体験なさったことが根底にあるように思います。生まれたいのちは、ぐんぐん成長し、立派な大人になります。そして、いつかは老い、病気になり、死を迎えます。成長も老病死の現実も共に「諸行無常」の理が為す現実です。こうして私たちの周りでは、刻一刻と時間が流れ、気づかぬうちに万事が変化しています。この変化というものについて、自分の好みで分別することなく、どんな変化も厭わず、我が事として受け止めていけるようになれば、私たちは仏に近づき、人間としての器を完成させていくのです。