第22回「発菩提心陀羅尼(ほつぼだいしんだらに) ―菩提心を(はっ)すべき事―

(おん)。 冐地即多(ぼうじしった)母陀(ぼだ)波多野迷(はだやみ) 

施食会におけるご本尊様・「五如来様」を招請(ちょうしょう)(こちらからお願いしてお招きすること)し、そのみ教えを請う「五如来宝号招請陀羅尼(ごにょらいほうごうちょうしょうだらに)」をお唱えして、五如来様がそれぞれ提示する仏のみ教えに触れることができました。これによって、私たちが仏のみ教えに従い、仏と共に生きる道を歩んでいくことが決意できたとすれば、それが「発菩提心(ほつぼだいしん)発心(ほっしん))」ということなのです。これは端的に申し上げるならば、「自分たちの日常生活において、常に仏を敬い(帰依すること)、仏に教えを請いながら、我が身心を調えていく習慣をつける決意をすること」でありますが、これは「甘露門」の冒頭始め、修証義第4章等、様々な経典で触れられており、仏教(仏道)を歩む上で欠かせぬ行いであると捉えられています。言ってみれば、発心なくしては仏道を歩むことができず、仏道を歩んでいく上での大切な第一歩となるのが、発菩提心(発心)なのです。

そうした決意の表明としてお唱えされる陀羅尼が「発菩提心陀羅尼」となるわけですが、今まで同様、口先だけのお唱えとなることがないよう、自らの確固たる決意として、お唱えしていくことが大切であることは、もはや言うまでもありません。

「発菩提心」について、今回は曹洞宗の大本山・永平寺をお開きになった高祖道元禅師(こうそどうげんぜんじ)様が初心の仏道修行者に向けて、仏道修行(学道)に関する用心(心構え)等をお示しになった「永平高祖学道用心集(えいへいこうそがくどうようじんしゅう)」のみ教えから考えてみたいと思います。これは「菩提心を発すべき事」から始まる全十則から成る祖録です。この中で、道元禅師様はこの世の無常(万事が変化すること)を観ずることによって、菩提心が沸き起こってくるとお示しになっています。

発菩提心や諸行無常というのは、これまで様々な経典で味わってきた仏教の代表的な思想ですが、どちらも頭の中で理解するのは簡単そうに見えますが、いざ我が事として捉えていくとなると、中々、受け止めてくのが難しいことに気づかされるのではないかという気がします。ここ数日の間に、瀬戸内寂聴さんや細木数子さんといった著名な方が相次いで鬼籍に入られましたが、たとえば、こうした突然に最愛の人との別れが訪れたとき、その現実を我が事として受け止めていけるかと問われれば、決して、容易いことではないことに気づかされるでしょう。

寂聴さんや細木さんが他界された頃、私は同じように急逝なさったお檀家さんの通夜・葬儀を勤めさせていただいておりました。突然の悲しい現実を受け止めなくてはならないご遺族の心情を慮ると、辛いものがありましたが、法要や通夜説教を修行させていただき、ご遺族の皆様との対話を繰り返していく中で、次第に、ご遺族の方々が「いのちある者は、皆、いつか死ぬときが来る」ということを言葉にして発するようになっていきました。これぞ、「諸行無常」の理を我が事として受け止めるということであり、「無常を観ずる」ということなのです。そして、こうした出来事がきっかけとなって、今まであまり意識していなかったかもしれない仏のみ教えに目が向き、仏縁が育まれていくのです。それが「発菩提心」となのです。

思えば、お釈迦様も道元禅師様も菩提心を発したのは、一つには、実の父親や母親との避けられぬ悲しい別れを体験なさったことが根底にあるように思います。生まれたいのちは、ぐんぐん成長し、立派な大人になります。そして、いつかは老い、病気になり、死を迎えます。成長も老病死の現実も共に「諸行無常」の理が為す現実です。こうして私たちの周りでは、刻一刻と時間が流れ、気づかぬうちに万事が変化しています。この変化というものについて、自分の好みで分別することなく、どんな変化も厭わず、我が事として受け止めていけるようになれば、私たちは仏に近づき、人間としての器を完成させていくのです。