第5回  「(かれ)()(われ)にあらず」


自分に与えられた使命(役目)は自分で全うする


それは、とても暑い日の昼下がりのことでした。中国の天童寺(てんどうじ)にて修行中の道元禅師様は炎天下の下、汗だくになって海藻を干している(ゆう)という68歳のご老師に出会います。

「こんな暑いときに、しかも、ご高齢の方にこんな大変な仕事をさせるなんて、何と気の毒なことか・・・。」
一生懸命、海草を干している用老師のお姿を見ながら、そう感じた道元禅師様は用老師にお尋ねになりました。

「こんな大変なお仕事は、誰か下役の雇い人にやらせた方がいいのではないですか?」

そんな道元禅師に対して、用老師から返ってきた返答とは・・・?。

それが、今回の提示させていただいた「(かれ)()(われ)にあらず」という禅語です。これは「他人がしたことは、自分がしたことにはならない。」という意味の言葉です。用老師にとって、海藻を干すことは他者に任せることでも、誰かに手伝ってもらうものではない、自分に与えられた修行であるというのです。用老師を心配して声をかけた道元禅師様にとって、これは驚くべき返答だったことは想像に難くありません。

その後も用老師と道元禅師様の会話は続きますが、さすがの道元禅師様もこの用老師のお言葉に頷くしかなかったようです。後に、道元禅師様は日本に帰国して、中国で体得した仏法を広めんと、福井県の永平寺を始め、いくつかの修行道場を築き、曹洞宗発展の礎を築く祖師となられますが、この用老師は道元禅師にとって、お釈迦様から伝わる修行の意義を伝えてくださった恩人の一人となりました。「他は是れ吾にあらず」を生き様としてきた用老師の存在は、道元禅師様という偉大な宗教者を生み出すためには、欠くべからぬ重要な役割を担った人物の一人だったと言っても過言ではないでしょう。

さて、そんな用老師が道元禅師様にお伝えした「(かれ)()(われ)にあらず」という言葉から、我々は何を学ぶことができるのでしょうか?

実際に目の前で、炎天下の中、ご老人が汗を流して作業をしている姿を見たら、若かりし頃の道元禅師のように相手への思いやりゆえの言葉をかける人もいるでしょう。

しかし、そうした言葉かけが本当に相手を思いやっているものだと言えるのでしょうか・・・?

思いやりがあると思っているのは、実は自分だけであって、相手はそう感じているとは限りません。傍から見れば高齢者であっても、その方は炎天下での作業を自分の生きがいだと感じているかもしれません。だとすれば、いくらこちら側が相手を思いやって施した言葉であったとしても、相手には生きる喜びを奪われたという寂しさだけを残すことになるかもしれないということです。「他は是れ吾にあらず」という言葉から、我々はそのことをよくよく考えておかなければなりません。

要するに、一方的な思いやりの押し売りでは相手が喜ぶことはないということです。だからこそ、どうすれば相手がこちらの行為を受け止めたとき、喜びや希望を感じられるような言葉や行いを施せるのかを十分に考えた上で、、そうした言葉や行いをお互いに施しあっていくことを心がけていきたいのです。

今後も続くであろう「高齢化社会」を生きる中で、高齢者を心配し、労わる気持ちを持つことはとても大切なことですが、心配しすぎて、無意識のうちに高齢者の生きがいを奪うようなことがないように気をつけていきたいものです。おじいちゃん・おばあちゃんが
(かれ)()(われ)にあらず」とご老体にムチを打ちながらもがんばっておられるのならば、納得行くまでやっていただければいいのです。そして、そんな高齢者の姿から、若い人々も高齢者に負けないように「これこそ私の生きがい・役目だ」と言えるものを見つけ、今、生かされている自分の存在意義を明確にしていきたいと願うのです。