第42回 「無位(むい)真人(しんにん)

あらゆる執着から解放される

「無位」は「位のない状態(位を超えた状態)」を意味し、「真人」は「悟りを得た人」、すなわち、「あらゆる執着から解き放たれ、自由の境地を得た人」を指しています。

令和4年の布教教化のテーマとして、「放下著(ほうげぢゃく)」という禅語を掲げさせていただきました。これは「私たちを束縛するものや、執着を発生させるものから解放し、自由の境地を得ること」を目指すものです。今回、提示させていただいた「真人」というのは、まさに「放下著」を体得できた人と捉えることができるでしょう。

こうした「放下著」という言葉を取り上げ、「真人」を目指していこうと思ったきっかけは、昨年のある出来事を通じて、色々と思い悩んだことが背景にあります。長年、身を置いている組織の中で、実績が積みあがってきたのでしょうか、以前よりも組織の中で発言力を持つようになってきたと思い込んでいた私が、ある日、甘い判断をしてしまい、他者から誤りを指摘していただいたことがありました。指摘してくださった方は、私を貶めるなどといった悪意は一切なかったのですが、私の中には判断が甘かったがゆえに、誤った答えを導き出してしまったことだけが悔やまれ、理論立てて物事を考え、意欲的に発言する気持ちが薄れていってしまったのです。自信喪失というのは、こういう状態なのでしょう。この出来事以降、発言するにしても、どこか自信が持てず、それが周囲にも伝わってしたのか、今までのように、周囲の信頼を得られているという感覚を持てなくなってしまい、自信喪失に拍車がかかってしまったのです。

こうした状態が半年ほど続きました。自分の中で、何とかしなければともがくのですが、いくらもがいても、中々、暗闇から抜け出すことはできませんでした。まさに“スランプ”という状態です。何をするにつけても自信が持てず、他者に意見を求めて、その反応を見ながら、自分の意見が正しいかどうかを判断してみるという状態が続きました。そして、他者の意見と自分の意見が合致した場合はともかく、そうでなかったときは、また、自分を責め、自信を失っていました。

そんな私が、ある時、たまたま立ち寄った書店で手にした一冊の本によって、再び自信を取り戻すことができたのです。その本には心の持ち方として、「自尊心を高める」ことが勧められていました。本は「自尊心というのは、自分を信じることであり、自分を愛することである」説くと共に、「自尊心が高い≠傲慢・自己中心的・自惚れが強い」とも説き明かしています。自己中心的だから他者の評価を求めようとするのであり、威張ったり、横柄な態度を取ったりするのであるという説明に合点がいきます。「自分の中に存在している価値を信じ、自分を愛する視点を持つ」ことを正しく理解させていただくと共に、自分を信じ、愛せなくなってしまうという状態に捉われてしまったから、自信喪失につながっていたことに気づかされたのです。

「自分の価値」という言葉を、仏教が説くる「仏性(仏に成れる性質)」等の言葉に変換することは可能です。自尊心を意識しながら、自らの仏性を認め、「無位の真人」に近づけるよう、日々、精進していきたいものです。