第5回 「執着心を捨てれば・・・」
無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味蝕法
無眼界
乃至無意識界
前回は無益な比較は慎み、各々の優れた部分を認め、受け止めていく生き方を学ばせていただきました。
さらにみ教えは続きます。この世は観世音菩薩様が舎利子に語ったように「諸行無常」であるということを覚ったとき、そこに存在する全てのものは形を変えて、必ず変化していくことに気づかされます。ということは、形あるもの(色)というのは、本当は存在しないということに気づかされるのです。たとえば、今、我々の眼前に存在しているコップも、今はコップとして存在していても、もし、数分後、割ってしまったとすれば、ただのガラス片となってしまうのです。
こうしたコップのように、この世の全ての存在は変化していきます。そのことに気づくと、受(ものを知覚する)・想(ものを印象づけたり想像したりする)・行(ものが変化してしまうことで、あれこれ思い悩む)・識(ものを認識する)の必要性がなくなっていくのです。
今回の一句は、我々人間に一つの問いを投げかけています。それは、「我々が変化していくもの対して、無変化を望むという無理な、矛盾した願望を持っていないか?」という問いです。それは無変化を望むことに対する執着とも表現できるでしょう。
そうした執着の原因が、「六根」によって生ずると説かれています。眼・耳・鼻・舌・身で得られる感覚を一般的には「五感」という言葉で表しますが、仏教ではそこに意(こころ)をも加え、六根とします。五感はすべてつながっていますが、五感から得られた感覚は、我々の心につながり、行動へとつながります。ですから、六根どうしは皆、つながっていて、お互いに関わり合って働くのです。六根を通じて得られる様々な感覚によって、我々は様々な感情を表出させますが、これは変化せざるを得ないものに対して、一喜一憂しているだけにすぎないのです。そして、何ものも変化する状況の中で、六境(色・声・香・味・触・法)という六根によって得られた感覚に対しても、我々は同様に「無変化を期待しない。無変化に執着しない。」という意識を持って関わっていけばよいというのです。
要するに、「常に変化して実体がないということは、形も感覚もないものだから、それを悟り、いつまでも執着しない。」ということなのです。執着心を捨てることが安楽につながる道なのです。この世は「諸行無常」ゆえに、全てが変化し、いつ何が起きて、どうなるかわかりません。にも関わらず、人間はそうした変化するものに対して、いつまでも自分にとって都合がいいように、変化を望むものには変化を望み、無変化であってほしいと願うものには無変化であることを望むのです。そうした人間の執着と、そこに生ずる矛盾が人々に苦しみを与えるのです。
諸行無常であることに目覚めるとき、実は、執着やこだわりが自分を苦しめていたことに気づかされます。執着からの解放が自己の安楽につながることをここでは押さえておきたいものです。