第44回 「
お互いの人生が平安に過ごせることを願い合う
先日、facebookを覗いておりましたところ、旧友が海外赴任のために異国の地に旅立ったことを記していました。彼によれば、滞在は数年になるとのこと。彼のお子さんと我が子が同級生ということもあり、どこか他人事ではないような感覚を持ちました。コロナ禍の中、家族を残して海外に旅立つ決心や、並々ならぬ覚悟が思い起こされると共に、再び元気な姿で日本の土を踏む日が訪れることを、只々、願うばかりでした。
時同じくして、あるお檀家さんのお宅に月参りにお伺いしたところ、そちらのお宅もご子息様の海外赴任が決まったとのこと。旧友と同じく数年は妻子と離れ離れの生活になるとのことで、こちらも他人事ではない気がすると同時に、元気に再会できる日が訪れるのが待ち遠しい限りです。
こうしたサラリーマンの海外赴任の事例は、勤務先に海外支店や出張所のある方ならば、あり得る話で、同様の経験をなさった方も多々いらっしゃるのではないかという気がします。僧侶の世界でも、同様の事例がないわけでもなく、他国の寺院や宗教施設に派遣され、数年過ごした方もいらっしゃいます。そうした方々の心情を慮るに、様々な心配も残しつつも、一大決心を以て、事に臨まれたのであろうと、只々、頭が下がるばかりです。また、送る側も、様々な心配を抱えながら、無事に再会できる日を願い、毎日を過ごしていくのでしょう。一人の人間の居場所が変わるという一大事に関して、本人始め周囲の人々の様々な心情が交錯する中、旅立ちから帰国までの一路(一本の道筋)が無事平安であることが、皆の共通の願いであることには変わりありません。
今回、取り上げさせていただいた「一路平安」という言葉には、旅立つ者の道中安全に対する願いが込められています。そこには相手のことを我が事として捉える「
海外赴任だけが「一路」ではありません。私たちの一生涯そのものが「一路」なのです。誰もがご両親様から先祖代々のいのちをいただいて生かされているという点では同じです。この世に生まれ、あの世に旅立つまでの一連の流れもまた「一路」なのです。
誰もがそれぞれの「一路」を一生懸命に生きています。そのことに思いを馳せながら、お互いの「一路」を思いやり、平安に過ごせることを願って毎日を過ごしていきたいものです。