一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第3回「翹足(ぎょうそく)(なら)時間を正しく恐れるということ―

時光(じこう)(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す。所以(ゆえ)行道(ぎょうどう)頭燃(ずねん)を救う。
身命(しんめい)(かた)からざることを顧眄(こめん)す。所以に精進は(ぎょう)(そく)(なら)う。

引き続き、「菩提心を(おこ)すこと」=「世間の生滅無常を観ずること」という観点からの説示が行われます。

道元禅師様がお示しになっているように、この世の無常を観ずることができるならば、「時光の太だ速やかなることを恐怖す」の説かんとしていることが痛いほど身に染みて来るのではないかという気がします。“1分=60秒”という一定のスピードを保ちながらも、確実に関わる全ての存在を様々な方向に変化させていく時間という存在も、その性質を正確に理解していくならば、これほど恐ろしい存在はないのかもしれません。“地震・雷・家事・オヤジ”とは、“世の中で恐ろしいものを順番に並べた表現”だそうですが、行道(仏道修行をすること)の者は、この冒頭に、しかも、確実に「時間」を加えたいものです。なぜならば、「身命の牢からざること顧眄す」ともあるように、「私たちの身体は固く閉ざされた牢屋のように強固なものではなく、いつ兄が起こり、どうなるかわからない露の如きもの」だからに他ならないからです。まさに修証義のお言葉をお借りするならば、「露命(ろうめい)」ゆえということなのです。そうした我が身命が露の如きものであることを踏まえ、時間という存在を「正しく恐れて」過ごしていきたいものです。この「正しく恐れる」というのは、時間の性質をしっかりと押さえた上で、それに見合った形で毎日を過ごしていくことに他りません。

そうした無常観を有するとき、“1分=60秒”の価値に気づくことでしょう。まさに「寸暇を惜しんで」という言葉もあるように、自らの任務を全うしていくことする姿が芽生えていくはずです。それが「頭燃を救う」の意味するところです。たとえば、自分の近くで火災が発生し、火の粉が頭に飛んで来れば、あまりの熱さに、思わず、頭上の火の粉を払うはずです。こうした一刻の猶予もなく火を振り払うかのように、“1分=60秒”を大切にしながら、仏道修行に励んでいくことが、「頭然を救う」という、仏道修行者に求められる「学道の用心」であると道元禅師様はお示しになっているのです。

次に「精進は翹足に慣う」とあります。これはお釈迦様の過去世の出来事に関する故事にちなんだもので、お釈迦様が仏としてのお悟りを得る前のはるか昔、弗沙佛(ほっしゃぶつ)という仏様が火の中に入って坐禅修行を行するお姿に合掌し、翹足(足をつまだたせること)のまま、七日七夜に渡って歓喜の念を発せられたというものです。「翹」には、「上げるという意味があり、「翹足」となって、「足を上げる」とか、「つまだてる」ということを表現し、「精進」を意味しています。「精進」は、私たちの日常会話の中でも登場する比較的、使用頻度の高い仏教用語ですが、「お釈迦様のお悟りに向かって、真っ直ぐに進んでいく」ことを意味していることを、今一度、確認させていただきます。

先ほど、「時間の性質を押さえ、それに見合った形で過ごしていく」ということに触れましたが、その具体的な方法が「翹足に慣う」、すなわち、「精進」であることを、ここでは押さえておきたいものです。それは出家の仏道修行者であれば、お釈迦様のお示しになった道一筋に、在家の方であれば、自分たちの仕事や学業など、今、ご縁をいただいている道一筋に生きていくことを指しています。出家・在家双方まとめて申し上げるならば、どちらの立場にも共通して「今、ここで自分にご縁のある道一筋に、精一杯生きていくこと」の大切さが示されていると捉えるのがよろしいかと思います。

―露命なる性質のいのちをいただき、いつ何が起こり、どうなるかわからない毎日を過ごす私たち―
「時間」を正しく恐れ、「翹足に慣う」ことを心がけて、日々を過ごしていきたいものです。