第46回 「青山常運歩(せいざんじょううんぽ)

見返りを求めず、縁に随って生きていく

石川県内で言えば白山連峰(はくさんれんぽう)、お隣の富山県では立山連峰(たてやまれんぽう)と、山は人々にとって身近なものです。また、山岳信仰にも見られるように、神仏や霊魂が存在する信仰の対象物として、人々は畏敬の念を持って捉えてきました。

禅の世界でもまた、そうした山の存在を重視しています。特に我々人間のように、ちょっとしたことで動揺してしまうような存在と対比して、何があっても動ずることなく、堂々とそびえ立つ姿を取り上げ、山のごとき生き様の重要性を人々に説き示すものが多いような気がします。今回の「青山常運歩」もまた、そうした意味を説き示す禅語です。「青山」は、「青々とした木々が生い茂った山の姿」を表しています。「運歩」は、「縁に随う」ということです。山は夏は青々とした姿と下界の暑さを忘れさせるような心地よい様相を表し、秋は鮮やかな紅葉に彩られ、冬は雪化粧といったように、春夏秋冬、様々な変化を見せてくれます。また、自分の足下を不安定にさせるような強い地震が起きたり、大雨で地盤が緩み、土砂災害を引き起こしたりすることもあります。こうした外界の様々な変化の影響を受けながら、自らも変化していくことが、「運歩(縁に随うこと)」なのです。

周囲の変化を受け止めるということに対して、私たち人間ならば、季節に応じて我が身が変化することは受け容れられても、自然災害による変化は、でき得る限り避けたいといったように、自分の都合に応じて、現実を受け止めるか否かの判断をしているような気がします。

しかし、山にはどんな状況も受け入れる度量の広さがります。そればかりか、たとえ外から我が身を傷つけるような力が加わったとしても、決して、崩れ去ることなく、黙々とそびえ立っているのです。何かにつけては動じてしまいがちな心を持った私たち人間だからこそ、こうした山の存在を意識し、少しでも見習っていきたいと感じた先人たちが仏道の世界に多々いらっしゃったのでしょう。だからからこそ、「青山常運歩」のような言葉が存在しているのではないかという気がします。

曹洞宗の開祖・道元禅師様は、坐禅が「無所得無所悟(むしょとくむしょご)の行」であるとお示しになっています。やってみる前から自分に都合のよい期待を抱いて坐禅に臨んだとしても、自分が思い描いていたような期待を得ることはできないということを説いています。山は人間と違って、自分に都合のいい、余計な期待など抱きません。今の現状をあるがままに受け止めながら、堂々と存在しているのです。まさに山は「無所得無所悟」の存在なのです。そうした姿を見習いながら、日々を過ごしていくとき、あれこれ期待を抱いたり、見返りを求めるようなことはしなくても、今まで気づかなかったような新たな出会いや発見があるのではないかという気がします。