一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第5回「放下著(ほうげぢゃく) 繋縛(けばく)を離れる―」

(すで)声色(しょうしき)繋縛(けばく)を離るれば、(おのずか)ら道心の理致(りち)(かな)わんか。

緊那迦陵(きんなかりょう)」のような美声の持ち主が発する歌声に聞き入ってみたり、古代中国の「毛嬙(もうしょう)」や「西施(せいし)」のような美女に見入ったりというのは、我々の日常生活においては、ありがちな場面です。しかし、いずれも“美”という一点の強みに捉われ、心動かされているという点では同じです。

一体、それの何が問題なのかという気がしますが、一点に捉われてしまうと、自分が評価した存在以外のものの価値を認められなくなってしまいます。ここが一点に執着してしまうことの恐ろしいところで、よくよく注意しておかなくてはなりません。

こうした自分が何かに執着することによって、それ以外の存在が持つ価値に気づけなくなるような狭い捉え方というのは、我が身が束縛され、自由が奪われたかのような状況とも言えるでしょう。それを指し示すのが、「繋縛」という言葉です。これは「三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)」や、「妄想」を意味し、私たちが真っ直ぐにお釈迦様のお悟りに進んでいくのを妨げる存在でもあります。

こうした我が身を束縛する存在から解放され、自由無碍の状態で仏の道を歩んでいくことが、仏道修行なのです。そうした生き様というものを、私たちも少しでも意識的に日常の中に取り入れながら過ごしていきたいものです。そして、そうした決意を持つことが「菩提心(ぼだいしん)」なのです。

今回の一句の中には「道心」という言葉が出てまいりますが、これぞ「菩提心」のことです。煩悩や妄想に捉われることなく、道心を発して、我が身心を清め、調えていくことを、「理致(我が人生の筋道・道標)」としていくことが、仏道修行者たるものの学道の用心であると道元禅師様はおっしゃっているのです。

令和4年の仏道修行の目標かつ布教のテーマとして、「放下著(ほうげぢゃく)」を掲げさせていただきました。私自身、小さなことに捉われ、道を誤りがちなであるがゆえに、少しでも仏に近づかんと願って掲げた目標・テーマです。この言葉は、我が身を仏への道から逸脱させていく存在に出会ったならば、そこで立ち止まったり、捉われたりすることなく、我が身から遠ざけて(放ち去って)、仏の道に立ち返っていくことを意識的に習慣づけていく言葉です。あまり小さなことに捉われすぎずに、どんなことも前向きに受け止め、積極的に毎日を過ごしていきたいものです。