一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第6回「寡聞(かもん)少見(しょうけん)の仏道修行者 ―哀れむべく、惜しむべし存在とは・・・?

往古来今(おうこらいこん)(あるい)寡聞(かもん)の士を聞き、
或は少見(しょうけん)の人を見るに、多くは名利(みょうり)(こう)()して、永く佛道の命を失す。
哀れむべく、惜しむべし。知らずんばあるべからず。

たとえば、能力があるのに、周囲の人と仲良くできないがゆえに、中々、その力を認めてもらえず、悶々としながら毎日を過ごしている人というのは、どこの世界にもいらっしゃるかと思います。優秀な人材であるのは誰もが内心では認めているのですが、人を見下したような言動を発したり、ミスをした人間に罵声を浴びせてみたりといった態度を取るために、周囲に不快感を与え、近づきがたい印象を覚えさせてしまっているのでしょう。だから、周囲は、その能力を認めたくなくなってしまうのです。

こうした方こそ、世間一般における「哀れむべし、惜しむべし」人材ということなのでしょうが、仏道の世界における「哀れむべし、惜しむべし」人間というのは、どういう方を指しているのでしょうか?それが今回の一句が指し示すところです。

まず、「往古来今」ということですから、「いつの時代も」とか、「太古の昔から変わらず」ということでしょう。人間の歴史は繰り返します。いつの時代も同じような考え方の人間は存在していたのでしょう。

そんないつの時代にも存在している「哀れむべし、惜しむべし」存在というのが、「寡聞の士」であり、「少見の人」であると、道元禅師様はお示しになっています。私たちは(げん)()()(ぜつ)(しん)(身体)・()(心)の六根(ろっこん)を用いて周囲の情報を取得していますが、耳で聞くことも、眼で見ることも、どれを取ってみても寡(少ない)であるばかりか、それを謙虚に認めることなく、知ったような言葉を発してみたり、横柄な態度でいるような人こそが、仏道修行者として「哀れむべく、惜しむべし」存在であると道元禅師様はおっしゃっているのです。

この道元禅師様のみ教えは、仏道修行者の一人を名乗るものとして、よくよく心に留めておきたいものです。平成4年3月に師僧の得度(とくど)を受け、仏門の世界に身を投じた私は、平成14年に大本山總持寺(横浜市鶴見区)にて一年余りの安居(あんご)修行、平成17年には布教師養成所にて3年間の研修といった過程を経、今に至っております。令和4年3月現在で年齢42歳、法臘(ほうろう)(出家得度後の年齢)30歳、自分なりに精一杯、毎日を過ごしているつもりではいますが、社会人としても、僧侶としても、まだまだ「寡聞」・「少見」であるという意識を忘れずに、謙虚な気持ちを持って過ごしていきたいと思っています。

特に仏道修行者の場合、そうした意識がなければ、「名利の坑に堕して、永く佛道の命を失す」ことになると道元禅師様が警笛を鳴らしていらっしゃる点にもしっかりと注目しておきたいところです。

そもそも、仏道修行者というのは、坐禅修行によってお悟りを得たお釈迦様のみ教えを受け継ぎ、それを自ら実践して、後世に伝えていく役目を持った存在です。お釈迦様は周囲の様々な存在に対して、その存在価値を認めてきた方です。すなわち、あらゆる存在にいのちを認めると共に、どんないのちも殺さずに生かしてきたのです。それが「不殺生(ふせっしょう)」という言葉で言い表されているのです。

そうした「不殺生」の立場で以て、お釈迦様から脈々と伝わるいのちを殺さずに生かしていくことを説いているのが「佛の慧命(えみょう)を継ぐ」です。まさに「佛道の命を失す」とは真逆の行いです。そうした佛の慧命を継ぐことに我が身を捧げ続けていく限り、仏のいのちは失することなく、存在し続けるのです。

また、「名利」という、「名誉や利益を追い求めること」も注目すべきところです。「名利の坑に堕す」とありますが、「名誉・利益に捉われ、その穴の中から逃れられなくなっている状態」を指しています。確かに、これが清貧なる仏道修行者の姿とは大きくかけ離れたものであることは、明白です。

「寡聞」・「少見」であることを認めることなく、横柄な態度で毎日を過ごしているようでは、名誉・利益に捉われ、仏道修行どころではありません。こうした道元禅師様のみ教えは、実に端的かつ明確なものです。しっかりと心に修め、日々の仏道修行を精進していきたいものです。