第5回 「流れをつかむ ―お釈迦様とのご縁を結ぶために―


(ただ)(只)生死即(しょうじすなわ)涅槃(ねはん)と心得て
生死(しょうじ)として(いと)うべきもなく
涅槃(ねはん)として願うべきもなし


私たちが生かされているこの世とはどういう世界なのでしょうか・・・?

それは『「諸行無常(しょぎょうむじょう)(この世は時間の流れがあるために、万事が絶えず変化していること)」ゆえに、自分の思い通りにいかないことが多い世界である』ということです。自分の思い通りにいかないことを「諸法無我(しょほうむが)」といいますが、いくら一生、健康で長生きがしたいと願っても、いつかは、肉体は老い、病にかかり、死を迎えます。たとえ、老いや病に無関係な若くて、健康な時であっても、人間関係や仕事のこと、勉強のことなど、誰しも様々な苦しみを抱えながら生きています。この世は苦しみの連続である−それを「一切皆苦(いっさいかいく)」といいます。


大切なことは私たち一人一人がこうした自分たちが過ごすこの世のしくみを知ることです。それはこの世で生きていくには、苦しみがつきまとうという事実を受け止めるということです。

それを受け止めた上で、「どうすれば、そうした苦しみを少しでも和らげることができるか?」を考えていくのです。その答えは「お釈迦様とのご縁を結ぶこと」です。前回、「三宝帰依」というお話をさせていただきましたが、私たちが「仏とご縁を結び、仏のみ教えに耳を傾け、仏を敬う」という、仏と共に生きていくことが必要だというのです。


お釈迦様とのご縁を結ぶ―その方法はいろいろあります。言うなれば、私たちには様々な道が与えられているということです。一番簡単なのは、書店に行って、仏教書のコーナーで、何でもいいから仏教に関する本を一冊購入し、読んでみることです。「お金がもったいない!!」というのならば、図書館で借りてもいいです。とにかく何かしらの仏教書を読んでみることです。その一冊を読みすすめながら、まだ、何か釈然としない、まだ仏教が見えてこない、というのであれば、さらに別の本を買って、読んでみるのもいいかと思います。

もし、仏教書に触れ合う中で、何か見えてきたとき、今度は、その教えを実行してみることです。仏教書を読むのはお釈迦様とのご縁を結ぶにはいいのですが、読んでいるとどこかわかったような気になってしまい、教えを実践しなくなるという難点があります。仏教の教えは、いくら頭の中で暗記したところで、何の意味もありません。「やらなければ」意味がないのです。

道元禅師様は若かりし頃、仏道修行とは坐禅と祖録(そろく)(古人の仏教に関するみ教え)を読むことだと思い込んでいました。ある日、中国の天童寺(てんどうじ)にて祖録を読んでいた道元禅師様の元に西川(せいせん)の僧なる人物がやってきて、道元禅師様に祖録を読む理由や意義について質問なさいました。「畢竟(ひっきょう)じて何の用ぞ」―祖録を読むことが一体何になるのか?と問い続ける西川の僧を納得させる解答を見い出せぬ道元禅師様は「坐禅を徹底的に行じなければ、仏法の真髄を説くことはできない」ことに気づかされます。道元禅師様と西川の僧のやり取りは、仏道修行における実践の大切さを訴えています。すなわち、「坐禅も祖録を読むことも同じくらい大切であり、お釈迦様に直結する行である。だから、どちらかに偏った見方をするのではなく、双方を大切にしていく」ということなのです。

仏教のみ教えは決して、難解な哲学的思想ではありません。我々の日常生活に根付いたものであり、いくらでも日常生活の中で実行できることばかりです。たとえば、履き物をそろえるとか、食事の際に「いただきます」や「ごちそうさま」を言うとか。こうしたことを実行することで、自分にはできると思っていたようなことでも、意外とできていないことに気づきます。また、実行を継続する中で、いろんな発見があり、自然と心が穏やかになってくることもあります。

お釈迦様とご縁を結ぶ中で、次第に平穏で安らかな日常を送ることができる―それが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地です。「涅槃」とは煩悩(ぼんのう)(むさぼること・怒ること・愚痴を言うこと)がコントロールできた状態です。この世の仕組みを知り、心のやすらぎを求めて、お釈迦様とご縁をつなぐ―この流れが完成したとき、一切皆苦だった「生死」が「涅槃」になるのです。苦しみの生死とやすらぎの涅槃は決して、相反するものではないのです。また、苦しみと安らぎは、別個に存在するのでもなければ、自分の好みで分別するものでもありません。私たちの生死の中に仏を置くことで、一連の流れのあるつながったものになるのです。

この流れを体得することを願うばかりです。