第47回 「春光日々新(しゅんこうひびあらたなり)

一つ一つの価値や意義を大切にしていく

本日・令和4年2月20日(日)夕方現在、金沢市内は一瞬にして辺り一面が白銀の世界となりました。日中は時折、降雪しては路面が白くなったかと思えば、境内の大木の枝が揺れ動くほどの強風が吹いてみたり、あるいは、雪も風もどこへやらと言わんばかりに穏やかになってみたりと、立春も過ぎているのですが、一日を通して春と冬を繰り返すような、はっきりしない天候の一日となりました。暦の上では春とは言いながら、北陸はまだまだ冬のような毎日が続くようです。

そんな中、我がお寺では、兼ねてより予定されていたお檀家さんの四十九日・大練忌(だいれんき)法要が営まれました。法要が始まる直前までは、荒天ではありましたが、法要後、外の世界に目を向けてみると、穏やかな春の日差しが降り注いでいました。

図らずも、故人様の戒名には、「慈光院」という院号を付けさせていただきました。これは、故人様が仕事一筋で同僚にも慕われていたこと、そして、温厚で物静かな方であったこと、それらを踏まえながら、そのお人柄がお亡くなりになった真冬という季節の中で、ほんの一瞬、人々の心を安心させてくれる淡い陽ざしのようであることから付させていただいたものです。

そんな一瞬、我々の心をホッとさせてくれた春の陽ざしというのは、春なのに、まるで真冬のような荒天の中に射すものもあれば、まさに春だと言わんばかりに、穏やかな空気を演出し続けてくれるようなものもあります。他にも色々な春の陽ざしが出てくるでしょうが、どれ一つ取ってみても、似て非なるもの、一つとして同じ春の陽ざしは存在しないのです。一つ一つにそれだけが有する価値や意義があるわけで、それを説くのが「春光日々新」なのです。

私たちの周囲の何一つ取ってみても、同じものはありません。たとえ同じように見える商品であったとしても、それが自分たちの眼前までに運ばれてきた道程は異なるわけで、使用方法が違えば、キズや塗装の剥がれなど、様々な違いが生じていくのです。それゆえ、同じように見えて、実は一つ一つが違うのです。

そうした事実を踏まえ、一つ一つの価値に気づき、大切にしていく姿勢を、「春光日々新」から学ばせていただきたいものです。