一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第7回「名利を(なげう)うつ」

(たと)権実(ごんじつ)妙典(みょうてん)を読むあり、縦い顕密(けんみつ)教籍(きょうしゃく)を伝うるあるも、
(いま)
名利(みょうり)(なげう)たずんば、未だ発心と(しょう)せず。

前回、「寡聞少見(かもんしょうけん)の士(様々なものを見聞きできていない者)」という言葉が出てきましたが、多くの人は「寡聞少見の士」であると共に、そのことを自覚しているからこそ、日々、学ぶことを心がけているのではないでしょうか。そんな気がいたします。

しかし、学ぶと言っても、そう簡単なものではありません。非常に奥深いものであると同時に、学び方を誤れば、とんでもない方向に進むことさえ起こり得ます。今回は、仏道修行の世界における「学習」ということについて、道元禅師様のみ教えから学ばせていただきたいと思います。

一般的な学習の方策として思い浮かぶのが、たとえば、書籍やインターネットを用いた学習であったり、講演会の聴講や実務経験等、様々なものが出てきます。しかし、たとえ、何らかの手段によって、徹底的に学習し、知識や技能を身につけたとしても、単に自分の能力を高めるだけで、周囲に対して自分の実力をアピールするような、威圧的な態度で振る舞うことを目的とした学習ならば、その成果があったとは到底言えません。学習するにしても、人のため、世の中のためといった、周囲を喜ばせ、利益をもたらすようなものでなければ、どこか虚無感の漂う、独りよがりのものになってしまいます。ひょっとすると、誰よりもそういう学習をしてきた当事者自身がそのことに気づき、得も言われぬ虚しさを覚えるのではないでしょうか。もし、そうであるならば、そんな学習に貴重な時間を使うことほど、無駄な時間の使い方はないような気がいたします。

では、仏道の世界における「学習」を、道元禅師様は「学道用心集」の中で、どのようにお示しになっているのでしょうか?

道元禅師様は今回の一句の中で、仏道の世界における「寡聞少見の士」と自覚する者が、優れた経典を読むなどして仏道の研究に時間を割いたとしても、「名利」がある限りは、発心(菩提心を発す)とは言えないとお示しになっています。「名利」という言葉もまた、前回、「名利の(こう)()す」という表現がありましたが、「名誉や利益を追い求めること」を意味しています。自分自身の出世や他者からの羨望のまなざしを一手に受けたいと願う心を持って仏道修行に励んでいる限り、発心など遥か彼方の存在だと道元禅師様はおっしゃいます。これもまた、「菩提心を発すこと」における仏道修行者の学道の用心として、よくよく我が身に刷り込んでおきたいみ教えです。

ちなみに「権実」や「妙典」、「顕密」といった見慣れない仏教の言葉が使用されております。簡単に関節を付しておきますと、「権実」は「権教(力量の浅い者に真実を示すための仮初の教え)と実教(直接的な真実の教え)」、「妙典」は「微妙なる法を説く経典」です。「権実の妙典」となって、「仏法の全てを説き尽くした優れた経典」ということを意味しているのです。また、「顕密」は「顕教(仏意を明確に示した教え)と密教(秘密の教え)」のことです。いずれも仏教の全てを網羅するほどの完璧なる経典を指しています。しかし、いくらそんな経典を完璧なまでに読み込んだとしても、名利がある限りは仏には近づけないというのです。

「諸行無常を観ずること」と、「名利を抛こと」の2点を、十分に実生活の中で参究し、身につけておきたいところです。