一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第8回「無上正等覚心(むじょうしょうとうかくしん)を持つ ―坐禅を只管(ひたすら)に“やって、やって、やり続ける”―

()るが(いわ)く、菩提心は、無上正等覚心(むじょうしょうとうかくしん)なり。名聞利養(みょうもんりよう)(かか)わるべからず。

道元禅師様は「諸行無常を観ずること」と、「名利を(なげうつ)こと」の2点が「菩提心」を発すことであるとお示しになってまいりました。これを仏道修行者の一人として、しっかりと心に留めて、毎日を過ごしていきたいものです。

さて、そんな「菩提心」というものについて、道元禅師様は一般人始め、初心の仏道修行者が陥りやすい誤った見解を参考事例として提示しながら、お示しになっています。そのことを念頭において、今回の一句を読み味わってみたいと思います。

まず、「菩提心は、無上正等覚心なり」とあります。「無上正等覚心」というのは、「この上ない(無上)悟りを求める心」ということです。

そもそも仏教は今から約2600年前の12月8日にお釈迦様が坐禅を通じて、この世の道理(全てがつながり、関わり合っているということ)を理解・体得なさったことから始まり、現在に至っていることは、幾度も触れてきたことです。このときのお釈迦様のお悟り(正等覚)というものを、自らも坐禅修行を〝やって、やって、やり続ける〟ことによって、同じように理解・体得していくことを心がけていくことが、「無上正等覚心」なのです。「正等覚」というのは、「仏が正しく体得なさったお悟り」と解すればよろしいかと思います。

大切なことは、こうした正等覚というものは、簡単な方法かつ短期間で体得できるものでもなければ、何かしらの参考書を読み漁って身につけるものでもない、ましてや、自分が周囲から一目置かれたいといった、「名聞利養に拘る」ような姿勢がある限りは、理解は勿論のこと、体得することさえできないというのです。こうした姿勢や見解が初心の仏道修行者たちが陥りやすい誤解なのです。

何か我が身に利益がもたらされることを願って、仏道修行に身を投じても、何も得られないばかりか、却って、仏のお悟りである「正等覚」から遠ざかって行ってしまうことでしょう。仏の道から我が身を遠ざける「名聞利養」なるものに捉われて身動きが取れなくなるようなことは避け、只管に、一仏道修行者として、お釈迦様の正等覚を味わわんと、坐禅を‶やって、やって、やり続ける〟ことが、仏道修行者が心がけておくべき、「学道の用心」であると道元禅師様はお示しになっているのです。このことをしっかりと押さえ、日々の仏道修行に邁進していきたいものです。