第49回 「明歴歴露堂堂(めいれきれきろどうどう)

今の自分が持っているものが、嘘偽りなく、そのまま姿を現す

私は24歳のときに、約1年間のご本山での安居(あんご)(修行)を終え、高源院の住職を拝命致しました。あれから17年の歳月が流れたわけですが、振り返ってみますと、僧侶として自信を持って堂々とお檀家さんに接することができるようになったのは、ごく最近のことのような気がします。その理由を、若かりし頃は、ご本山での安居期間が短かったためではないか、だから自信が持てないのではないかと考えたこともありました。

そんな私とは正反対で、ご本山に長く安居していらっしゃった方も大勢いらっしゃいます。先日、そんな中のお一人である先達が書かれた記事を興味深く読ませていただきました。その方は何年ものご本山での安居を終えて、地元のお寺に戻ってしばらくたったある日のこと、一時間の説法の依頼をいただいたのですが、何を話せばいいのかわからず(これを、ご自身は自信がなかったと述懐なさっています)、近隣のご住職様に相談に伺い、アドバイスを請うたというのです。この記事を拝読させていただきながら、安居の長短に関わらず、誰しも初めてのことを前に自信を持って、堂々とできるものではないという、極々自然で、当たり前のことに気づかせていただきました。自信過剰になったら謙虚さを忘れずということは勿論のこと、自信がないときは自信を持てるように自分を鼓舞していきたいと感じると共に、過去の修行のことに捉われず、「今という時間」・「ここという場所」で、精一杯、仏道を歩むことの大切さを再確認させていただきました。

さて、この先達にアドバイスを与え、その背中を後押ししたご住職様がおっしゃった禅語というのが、今回提示させていただいた「明歴歴露堂堂」です。「明歴歴」は「はっきりしている」ということであり、「露堂堂」は「堂々と立派な姿をはっきりと現している」ことを意味しています。

私は、この禅語が意味していることを、現在、曹洞宗の布教師の道を歩む身として、幾度も自覚してきました。どんなに背伸びをして、人様の心を動かすようなことを言おうとしても、自分自身が日々仏道修行に勤しんでいなければ、何も出てきません。人様の心を動かす説法を求めようと、どんなに美辞麗句を学ぶだけ学び尽しても、出てくるのは内容の薄っぺらいものであり、とても自分が期待したようなものではないということです。日々、坐禅を行じ、お釈迦様の辿ったた道を自らも真似するかのように後を追い続けていく中で、自ずと自身の身心が磨かれ、仏の行い・仏の言葉というものがにじみ出てくる、すなわち、はっきりと姿を現すようになっていくのです。それが「明歴歴露堂堂」なのです。

先の先達はおっしゃいました。自分の説法の良し悪しの評価は聞いてくださった檀信徒の皆様にお任せし、自分は毎日、仏道修行に勤しむだけだと。私も同感です。無理して背伸びせず、いただいた時間を大切にしながら、仏として生きていく中に、仏の悟りが自ずとにじみ出てくるのです。