一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第10回「一念不生(いちねんふしょう)法門(ほうもん)

()るが(いわ)く、一念不生(いちねんふしょう)法門(ほうもん)なり。

「菩提心を(おこ)すこと」について、前回は「一念三千(いちねんさんぜん)観解(かんげ)」という言葉に触れながら、考えてみましたが、今回は「一念不生の法門」という言葉を通じて、味わってみたいと思います。

「一念」という、「ほんのわずかな時間の中における心の働き」によって、我々は善に赴くこともあれば、悪に転ずることも起こり得ます。また、凡夫にもなれば、仏にもなれる可能性だって秘めています。それが娑婆世界に生かされている者たちの真実の相(姿)です。そのことを観解して(観察・理解すること)、少しでも仏に近づいていくことを心がけていくのが、「一念三千の観解」の意味するところでした。

今回の「一念不生」というのは、やはり、一瞬の心の動きによって、三毒煩悩(さんどくぼんのう)(貪り・(いか)り・愚かさ)といった迷いの心が生ずれば、凡夫に転じてしまうということを説いています。そうした特性は、人間ならば誰しもが有しています。そのことを踏まえた上で、我が心の中に三毒煩悩が生じてしまったならば、それを言葉や行動にして表に出してしまう前に、何とか自分で調整して、相手も自分も不快感を覚えたり、迷いが生じたりすることがないように取り計らっていくのです。そうやって、三毒煩悩の調整ができるようになったとき、人は仏に近づくことができたと言えるのです。そうした状態を説くのが、「一念不生の法門」なのです。「法門」は「仏のお悟りへの入口」です。

お釈迦様のみ教えをいただき、その足跡(そくせき)を追うことを日課としているはずの私が、中々、改善することのできない短気な性格を調整することが叶わず、相手に強い態度で出て、ハッとさせられたことが幾度もありました。かつては自分の中に瞋りの感情が沸き起こって来る瞬間さえ自覚できなかったが故に、相手の心情にまで思いを馳せる余裕すら持てず、感情を爆発させていた私が、コロナ禍によって、大声を発することがタブー視される風潮の中で、感情を爆発させることの是非を我が身に問いかけた時期がありました。そうやって、以前に比べ、相手を思うゆとりを持てるようになったかなとは思うものの、まだまだ瞋りが生じたときの心の調整は不十分と言わざるを得ないと反省する毎日です。出家者と銘打ちながらも仏からは程遠く、凡夫の域を出ることさえできずに、もがく毎日が続いていますが、一念不生の法門を目指し、毎日をコツコツと精進しながら過ごしていきたいものです。