一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第13回「現在(いま)の自分と向き合ってみる」

試みに、吾我名利(ごがみょうり)当心(とうしん)を顧みよ。一念三千(いちねんさんぜん)性相(せいそう)を融ずるや否や。一念不生(いちねんふしょう)法門(ほうもん)を証するや否や。

ここまでのポイントを再確認しておきます。それは「菩提心」は“理解するもの”というよりは、“(おこ)すもの”であるということです。すなわち、頭の中に詰め込んだ知識をさらけ出して、自分の見解を声高に提示し、他者の見解を絶対に認めないような姿勢で捉えるものではなく、自分の日常生活の様々な場面の中で、「こういう行いが菩提心のある行いなのではないか」と色々と試行錯誤しながら身につけていく姿勢を持つことが仏道修行者であるということを、「菩提心を発すべき事」の巻から学ばせていただきたいのです。

―「試みに、吾我名利の当心を顧みよ」―
ここで、道元禅師様より「自分の心というものに向き合ってみなさい」というメッセージが発せられています。「吾我」は「自我」のことです。また、「名利」は以前にも出てまいりましたが、「名聞(みょうもん)(名誉が世間に広まること)」と「利養(りよう)(自分に利益がもたらされるようにすること)」のことです。可能であれば、是非、坐禅をやってみることをお勧めしたいのですが、試しに、どっしりと腰を下ろし、姿勢を調えて、心静かに自分と向き合ってみると、自分の中の吾我や名聞利養の存在に気づくでしょう。そうした心の働きが全くないという人はいないはずです。

しかし、この吾我や名聞利養が仏道修行の妨げになることは、これまで道元禅師様がお示しになってきた通りです。こうした心の働きの存在に気がついたのならば、少しでも自分の心の中から投げ捨てて、毎日を過ごすことが「菩提心を発す」ということなのです。「一念三千」や「一念不生」という、「ほんのわずかの時間の中での心の動き」を採ってみても、そこに菩提心を発せられるよう留意しながら、日々を過ごしていきたいものです。