第51回 「応病与薬(やまいにおうじてくすりをあたう)

自分よりも先に相手に目を向け、その苦悩に応じた救済策を施していくこと

医者が病人を診察して最も適した薬を与えて病苦を癒すように、仏や菩薩が衆生(人々)の苦悩に応じて、薬(教法)を与え、苦悩を癒すことを説いた禅語が「応病与薬」です。そもそも仏教の開祖であり、私共仏道修行者が指標とするお釈迦様は「対機説法(たいきせっぽう)」と申しまして、相手(対機)の機根や状況等をよくよく見究めた上で、それに応じた形で説法をなさいました。すなわち、あくまで相手を最優先に考えて、相手に応じた言葉を選びながら説法をなさったということです。そうした点から見れば、「応病与薬」は「対機説法」をわかりやすくたとえた禅語であると言うこともできるでしょう。

ある夜、ついつい深酒をしてしまい、真夜中に目覚めた私は中々、寝付くことができず、スマートフォンを弄っておりました。すると、ビジネス書や経済書を発行している東洋経済新報社のWEBメディア・「東洋経済ONLINE」に『「説明が下手な人」に共通する致命的な4大欠陥〜判で押したように「同じ思考回路」だ』という記事が掲載されており、ついつい見入ってしまいました。

記事では、「説明が下手な人は同じ思考回路をしている」と指摘します。そこには四つの特徴があるそうで、その第一に掲げられているのが、『「相手が聞きたいこと」を考えず「自分が伝えたいこと」だけを話す』という特徴です。記事はさらに『説明がうまくいかない最大の理由は「相手を無視しているから」』と指摘します。合点のいく指摘であると共に、これぞまさに「応病与楽」と合致するものであると感じ、さらに興味深く記事を読み進めていきました。そもそも相手に向けて説明しているはずなのに、説明する側の緊張や経験不足が原因となって、説明することで精一杯になってしまい、相手のことを考え、思いやる余裕がなくなってしまうから、「相手ファースト」の大原則がどこかに飛んで行ってしまうというのです。

こうした説明における留意点は僧侶の説法にも相通ずるものがあります。私自身も、これまで幾度も話し手目線の法話を展開し、聞き手である参詣者(聞法者)を置いてきぼりにして、反省を促されたことがあります。僧侶というのは、社会から離れた場所に別個に存在するものではありません。社会の一員なのです。そんな社会に生かされている一人として、同じ世界に生かされている人々が何を考え、どんな悩みを抱えながら日々を過ごしているのかをしっかりと見極め、それを救済する薬(教法)が提示できる存在でありたいと願うものです。コロナや戦争など、様々な苦悩を抱える現代社会ですが、そこに少しでも「病に応じて薬を与えられる」存在であれるよう、日々、精進させていただきたいものです。