一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第14回「貪名愛利(とんみょうあいり)の念を捨て去って」

唯だ貪名愛利(とんみょうあいり)妄念(もうねん)のみあって、更に菩提道心の取るべきなきをや。

試みに、地べたに座布団を置いて少し高さを設けてから、どっしりと腰を下ろし、手足を組んで、姿勢を調えてみるとどうでしょう。これが、我が曹洞宗の坐禅という仏道修行です。仏道修行者(学道の人)にとって欠かすことのできない坐禅ですが、これを行じて、心静かに自分と向き合ってみると、自分の中に「貪名愛利」なる心持ちが存在していることに気づくでしょう。「貪名愛利」は、これまで「名聞利養(みょうもんりよう)」という言葉も出てまいりましたが、「自分の名誉や利益を貪り、愛すること」を意味しています。これは誰しもが心の中に抱えているものであり、どう言葉や態度で取り繕おうとしても、その存在を否定することはできません。

しかし、存在は否定できなくても、「貪名愛利」を放ったらかしにしたまま過ごしていては、仏道修行など不可能であることは言うまでもありません。自らの中に存在する「貪名愛利」の念を認めた上で、自分の身心を調えながら、仏道修行の妨げとなる考え方を表出させないようにしていくことが、学道の用心であり、仏道修行者のあり方であると道元禅師様はお示しになっています。今回はまず、そのことを押さえておきたいと思います。

ちなみに、「妄念」というのは、「虚妄の心」であり、「誤った心遣い」のことです。この娑婆世界にいのちをいただいて生かされている私たちが、そのいのちをどうやって生かしていくか(日常生活をどう過ごしていくのか)という問いに対して、お釈迦様がお示しになった仏道を歩んでいくことを仏教は勧めます。その上で、「貪名愛利」の念を持って過ごすことは、「妄念」であることをも確認し、自らの身心の調整に努めていきたいと願うのです。

次に「菩提道心」について触れておきます。「道心」もまた、「菩提心」と同様に、「仏道を歩み、仏の悟りを求める心」なのですが、ほぼ同義の内容の言葉が組み合わせることによって、いかに仏道を歩むことが大切であると共に、それが仏教祖師方の共通の願いでもあることが、「菩提道心」という表現から伺えます。

間もなく4月を迎えますが、令和4年の住職の布教のテーマは「放下著(ほうげぢゃく)」です。道を阻む不要な存在に出会ったならば、それをサッサと捨ててしまおういうのが、「放下著」の意味するところなのですが、「菩提道心」を常に念じながら、その妨げとなる「貪名愛利」の念を表出させないようにしていくことが、「放下著」であると捉え、心新たに四月のスタートを切りたいと思っております。