第53回 「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)

誰もがこの世にたった一人しかいない尊い存在であることを自覚し合う

今回の一句は、多くの人が一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。そもそもこの一句は、今から約2600年前の4月8日、仏教の開祖・お釈迦様がお生まれになった際に、周囲を7歩歩行され、右手で頭上(天上)を、左手で足元(天下)を指して発せられたとされるものです。この日にちなみ、お釈迦様の慈悲の念に(なぞら)えた甘茶を(そそ)ぎ、そのご生誕を祝して営まれるのが、「釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)」、いわゆる「花まつり」です。

ふと天井を見上げれば、私たちの頭上には限りなく空が拡がっています。また、足元に目を向ければ、限りなく拡がり大地の上に自分という存在が生かされていることに気づかされます。お釈迦様が自らそうお発しになられたように、天上天下、全世界、どこもかしこも、自分という存在はたった一人しかいないことに気づかされます。

しかし、それは自分だけではありません。周りの全ての人に当てはまります。また、過去に生かされてきた人々、これからの時代に生かされるであろう人々、いつの時代に目を向けても、誰もがこの世にたった一人しかいない尊い存在であったことに気づかされます。大切なことは、自分だけが尊いのではなく、誰もが尊い存在であるということです。そのことをお互いに自覚し合い、相手の存在を大切にしながら関わり合っていくことを願うのが、「天上天下唯我独尊」なのです。そして、お釈迦様のご生誕を祝して注がれる慈しみの雨には、そんな意味合いが込められていることをも押さえておきたいものです。

僧侶になって、「天上天下唯我独尊」が意味するものを肌身で感じ取ったことは幾度もありましたが、中でも、私よりも若く、妻子やご両親を遺して先に突然、旅立たれたA氏には、一人の人間の尊さということを強く考えさせていただきました。会社に出勤する際も、退社して、家に帰ってきたときも、いつもと変わらない様子だった方が、翌日には呼吸が止まり、会話など、生前、当たり前に為されていた行いの全てがストップし、静かに臥せっているという「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の現実は、あまりにも突然過ぎる、辛くて受け入れがたいものでした。

以降、毎月のご命日にはご家族そろって故人様のご供養を続けさせていただいております。そうした触れ合いの中で、次第に当日の出来事始め、過去の楽しかった思い出、たった一人の父親という存在を失ったゆえの思ってもみなかった心の変化等が静かにご家族の口から発せられていきました。時が流れ、ご家族は様々な苦悩を少しずつ受け止めながら、一生懸命、前を向いて日々を過ごしています。そうした方々に対して、毎月の読経供養の場が、少しでもご家族の苦悩に寄り添いながら、故人の尊さに思いを馳せ、ご家族の絆をつなぎ続ける機会として提供できればと願いながら、今月も務めさせていただきます。

天上天下、どこを見渡してみても、誰もがこの世にたった一人だけの存在です。そのことを皆が自覚し合い、たとえ相手が受け容れがたい存在であったとしても、その存在を決して、邪険にすることなく、尊重していけるようになりたいものです。