一、
第16回「法執への戒め」
法執すら尚おなし。況んや世執をや。
「法執」や「世執」という言葉が出てまいりました。“執”という文字が用いられていることからもお分かりのように、仏法への執着(法執)や、世間に対する執着(世執)というものに目を向け、それを戒めているのが、今回の一句です。
禅語には「
それに対して、「法に対する執着」を意味する「法執」というのは、どう捉えていけばよろしいのでしょうか。一見したところ、仏法に捉われたとしても、世執のような弊害はないような気がします。しかし、法に執着することもまた、苦悩の一旦となってしまうのです。
「法執」という言葉を聞いて、私は曹洞宗の一布教師として駆け出しだった頃の自分を猛省するばかりです。布教のテクニックを少しばかり学ばせていただいた私は、自分の拙い法話でも人様が喜んで聞いてくださったことがうれしく、自信を持てるようになっていきました。そして、私は、もっと仏教を勉強させていただき、次も皆様に喜んでいただけるような法話をさせていただこうと心に決め、日々、布教の勉強に励んでおりました。
しかし、そんな毎日を過ごす中で、あるとき、周囲の僧侶の中で、さほど布教に重きを置かないように見受けられる方に対して、違和感を覚えるようになってしまったのです。「なぜ、布教しないのか」、「なぜ、勉強しないのか」―当人たちにその理由を問うこともなく、「きっと自分の嫌いなことは勉強しない怠け者に違いない」という勝手な思い込みが私の頭の中を支配していきました。そうやって、いつしか相手に勝手なレッテルを貼るようになってしまった私は、相手の状況を確かめることも、相手の気持ちを聞くこともなく、相手と距離を取るようになっていました。今思えば、これが「法執」ということなのでしょう。当時の私は仏法を学ぶことに集中する余り、それ以外のことを受け容れる余裕がありませんでした。また、仏道修行者ゆえに持ち合わせているべき人間的な温かみなり、自我を捨てて、周囲と和する姿勢というものが欠けていたようにも思います。これでは何のために仏道を学んでいたのかわかりません。やはり、仏道には坐禅という修行の実践が第一であり、図書での学習にばかり重点を置いていては、ホンモノはいつまで経っても掴み取ることなど難しいことに気づかされるのです。
今、ロシアがウクライナに侵攻し、世界中で「平和」ということが唱えられていますが、「平和」という、「自分が周囲と仲良く交わっていくこと」を考えていくとき、自分の思い込みで、相手の全てを決めつけてしまうような姿勢では、とても「平和」など実現するのは難しいでしょう。たとえ自分が法を学んだものという自負があっても、そんなものはどこかに捨てて、相手の思いや考え方にも目を向けながら、共に歩んでいくことで、平和な世の中の実現につながっていくことを、今一度、確認しておきたいところです。