第2回「首章・機縁
【機縁】
十九歳にして
それよりこのかた、苦行六年、遂に金剛座上に坐して、
三十歳
―「三十歳臘月八日、明星の出しとき、忽ち悟道、最初獅子吼するに是言あり」―
この一句にある「是言」は、前段の「本則」において、瑩山禅師様が提示なさったお釈迦様が悟道(お悟りを得ること)された際に発せられたという「我れと大地有情と同時に成道す」を指しています。「獅子吼」というのは、“百獣の王”と呼ばれる“ライオン”が吠えることですが、ライオンが吠えると、多くの獣たちが従うように、仏となったものが一句発することによって、衆生が帰依するというのが、「獅子吼」なのです。
ちなみに、お釈迦様がお悟りを得たのは、通説では35歳の12月8日となっておりますが、ここでの瑩山禅師様のお示しは30歳となっています。これは後出の出家19歳(通説29歳)と併せ、古説と捉えるのが一般的です。それを踏まえ、ここでは敢えて正誤を議論するようなことは、必要性のない戯論として避けたいと思います。
そんなお釈迦様が、そもそも、どういうご出生の方であったのかという所から、瑩山禅師様のご提唱が始まります。
まず、「西天の日種姓」と紹介されています。「西天」は修証義第3章でも学ばせていただきましたが、「インド」を指します。「日種姓」はお釈迦様の5つの俗姓の一つです。ここではお釈迦様がインドのご出身で、「日種」という姓であったことが語られています。
お釈迦様は王族のご子息としてお生まれになりましたが、生後、一週間ほどで実母が他界し、その妹である叔母によって育てられたとのことです。生後間もなく辛い出来事を経験なさったわけですが、その後は将来の国の統治者として、何不自由ない生活を送ることができたというのです。
やがて16歳となったお釈迦様は結婚され、長男も生まれ、父親となられました。しかし、この頃から人間ならば誰しもが経験する現実(生老病死)に悩まれ、19歳(29歳)のとき、将来の地位も家族も全て捨てて、城を出られたと言います。それが「十九歳にして子夜に城を踰え」であり、お釈迦様の「出家」です。
「出家」されたお釈迦様は、「檀特山」にて髪を剃り、六年間に渡る苦行に励まれます。始めは断食等、ご自分の身を痛めつける苦行を通じて、苦痛に耐え、精神力強化に励まれたのでしょう。しかし、そんな苦行にいくら励んでも、ご自分の苦悩が晴れることはありませんでした。
そんな中で巡り合ったのが「金剛座上に坐して」という言葉が指し示しているように、姿勢を正し、心静かに座るという「
そして、「葦、坐をとほし、安住不動、六年端坐」とあります。最初は小さな芽のようなものだったのが、後に芽吹いて花を咲かせるがごとく、坐禅によって、12月8日の明け方、悟道なさったことが提示されています。ここでは“葦”という言葉に大きな意味があるような気がいたします。最初から優れているものや完璧なものというのは存在しません。たとえお釈迦様の悟道につながった坐禅であっても、それを初めて取り組む者にとってみれば、何もわからないところからの“セロスタート”なのです。当初はわからないがゆえの戸惑いなり、疑問なりといったものに苦悩することでしょう。しかし、我が身に引き起こされる様々な困難と向き合い、それを乗り越えながら、決して、諦めることなく、“やって、やって、やり続ける”うちに、道が開けてくるのです。
そのことを、私たちはお釈迦様の「悟道」を通じて、学ばせていただきたいものです。