一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第17回「“観無常心(かんむじょうしん)”の醸成」

所謂(いわゆる)、菩提心とは、前来云(ぜんらいい)う所の無常を観ずるの心、
便(すなわ)()()の一なり。全く狂者の指す所に非ず。

前来云う所(これまで述べてきた中で)、菩提心は「一念三千(いちねんさんぜん)観解(かんげ)」や「入佛界(にゅうぶっかい)(しん)」等、様々な言葉で述べられてきました。しかし、菩提心というものは、こうした言葉であれこれ論じ合うものではなく、(おこ)すものなのです。すなわち、頭で理解するのもさることながら、自らの身体で行じていくものなのです。「狂者」という言葉が用いられています。菩提心を言葉のみで論じ、あれこれ妄想を膨らますがごとく解釈していく者のことを指します。そのことに留意しながら、「菩提心は発すものである」ということが、これまで、道元禅師様がお示しになってきたということを、今一度、確認しておきましょう。

そうした菩提心の根底にあるものが、「観無常心(かんむじょうしん)」であるというのが、今回の一句が指し示す内容です。これは、「無常を観ずる心」ということです。私たちの周りには時間が流れています。朝、目を覚ませば、日中は仕事や勉学に勤しみ、やがて夜になって入眠、また、朝を迎えるということの繰り返しです。また、生まれたいのちは成長していきますが、やがては老い、最期には死を迎えます。こうした時間の流れの中で、万事が変化してくことを我が事として受け止めていくことが「観無常心」なのです。

3月に葬儀をつとめさせていただいた檀信徒の方は、お若い頃、突然につれあいに先立たれた方でした。後日、ご遺族と故人様を偲ぶ中で、故人様が最愛の人を失った苦悩に直面し、人知れず泣き悲しむお姿を目の当たりになさったこと、生涯に渡って亡き人のご供養に我が身を捧げる中で、信心が養成されていったことを知り、大きな感銘を受けました。「観無常心」とは言いながらも、現実に最愛の人を失った現実を我が事として受け止めることが、いかに辛くて苦しいことか、困難なことか、ご遺族の皆様と故人様のご生涯を語り合うことによって、改めて、人生の厳しさを目の当たりにさせていただく仏縁となりました。私たちも「観無常心」というものを醸成していけるように毎日を過ごしていきたいものです。