第3回「首章・機縁A ―対機説法(たいきせっぽう)一筋の実際―」

【機縁】 (しか)しより以来(このかた)、四十九年、一日も独居することなく、
暫時
(ざんじ)
(しゅ)の為に、説法せざることなし。一衣一鉢欠くことなし。
三百六十余会、時時(じじ)に説法す。

『三十歳臘月(ろうげつ)八日、明星の出しとき、「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す』と獅子吼(ししく)なさって以来、お釈迦様は四十九年もの間、ただひたすらに「衆の為に説法する」というご生涯を送られたことが瑩山禅師様より明らかにされています。「衆の為に説法す」は、言うまでもなく、「世の人々の苦悩に寄り添い、説法によって救済なさってきた」ことに他なりません。それは「一日も独居することなく」が指し示すように、どんなときも休みなく、ずっと続けられてきたというのです。まさに、お釈迦様のご生涯は説法一筋のものであったと言っても過言ではありません。それも最期の最期が訪れるまで説法三昧のご生涯でした。そのことは、仏遺教経(お釈迦様がお亡くなりになる直前までなさったご説法が記された経典)からも明らかです。

お釈迦様の説法は「対機説法(たいきせっぽう)」であったと言われております。対機(相手)の能力・機根や職業等を加味しながら、相手に応じ、相手に合わせる形で言葉を発していく説法が「対機説法」です。

そうした対機説法一筋のご生涯を送られたお釈迦様の生き様を知る上で、「一衣一鉢欠くことなし」という点もまた、注目しておきたいところです。「一衣一鉢」は自分の所持品や社会的地位といったものと決別し、出家者としての道を選んだ仏道修行者が所有することを許される品物のことで、「一枚の衣と一つの器」を意味しています。すなわち、身につける衣服と食事をする際に用いる椀だけは、出家者が所有してもよいということになっているわけですが、これは、出家者の清貧な姿・生き様の象徴と言っても過言ではありません。相手に視点を合わせ、その苦悩に寄り添いながら救いの説法を施してきた出家者の身なりは、質素で清らかなものであったということを押さえておきたいものです。

そして、そうした清貧なる姿に人びとは心を許し、自らの奥底に潜む様々な苦悩を、赤裸々に語ることができたのではないかという点にも注目しておきたいところです。第一印象で相手の全てを判断してはいけませんが、第一印象というものは、中々、侮れないものです。なぜならば、そこにその人の人格というものが8割方にじみ出ているからです。

たとえば、誰かに悩みを相談する際に、すぐにでも怒り出しそうな表情の方であったり、威圧的な態度が身なりや言動ににじみ出ている人には、中々、心の内を話そうという気持ちにはなれないものです。そういう意味では、お釈迦様の「一衣一鉢欠くことなし」という柔らかみのある清貧なお姿には、人は心をオープンにして話しやすい空気を醸し出すのではないかという気がいたします。是非とも見習いたいところです。

そんなお釈迦さまとご縁をいただき、「三百六十余会、時時に説法をさせていただく身」として、相手を慮りながら、質素な姿で、柔かい語り口と確実に聞き取る聞き方による説法・対話を心がけていきたいと思っております。