一、
第19回「
「菩提心を発す」ということについて、「吾我を忘れる」という視点から示されています。やはり、自分とつながっている周囲の存在への配慮に欠き、自分を強く主張しているようでは、中々、仏様のような人間性が育まれていくことはないでしょう。
そうした「吾我」について、「忘れる」という点を重視しながら、更に深く学ばせていただきます。今回は「六十二見」というものが提示されています。まずは、そこから見ていきましょう。「六十二見」は、「お釈迦様の時代にインドで示されていた学説」です。それらは仏教以外の見解で、それらを総括・分類し「六十二見」と申します。
下記にその分類を一覧で表してみました。参考程度に触れておきたいと思います。
六十二見 | 本劫本見(過去に関する説) 十八見 | 常住論四見 |
一分常住論四見 | ||
辺無辺論四見 | ||
詭辨論四見 | ||
無因論二見 | ||
末劫末見(未来に関する説) 四十四見 | 断滅論七見 | |
現在涅槃論五見 | ||
死後に関する論三十二見 |
「六十二見」の詳細については、まだまだ参究しなくてはなりませんが、「常住(常に存在し続ける)」という、「無常」の道理に相対する思想や、「無因論(因果の道理を批判する立場の考え方)」など、お釈迦様のみ教えや、この世の道理といったものからはかけ離れたものばかりが見受けられるような気がいたします。
そうした思想に対して、我々人間は凡夫(仏とは正反対の存在)に近ければ近いほど、惹かれてしまうのではないでしょうか。すなわち、常住を願い、因果を否定したり、この世の道理やそれをお悟りになった仏のみ教えではなく、自分に標準を合わせ、自分こそが正しいと言わんばかりに言動を発したりしてしまうのです。それが「吾我」なのです。世間には“エゴイズム(利己主義)”という言葉がありますが、吾我と似通った意味を有しています。「六十二見は我を以て本と成す」と道元禅師様はお示しになっていますが、吾我を根本に持った思想が「六十二見」であるということを、ここでは押さえておきたいと思います。
そうした吾我というものが自分の言動に表れていることに気づいたならば、「静坐して観察せよ」と道元禅師様はおっしゃいます。すなわち、即座に正身端坐して、観察(注意して詳しく見極めること)するようにということです。ここで、観察すべき対象は自分自身です。すなわち、身心共々に静かに坐して、吾我に満ちた自分と向き合ってみることを道元禅師様はお勧めになっているのです。そうやって、吾我というものから我が身を遠ざけることができるということが、このみ教えの背景にあるような気がいたします。
この「静坐して観察せよ」という道元禅師様のお示しは、決して、学道の人(仏道修行者)だけに限って説かれたことではありません。世間一般、凡夫たる者も含め、全てに対してお示しになっていることと捉えるべきでしょう。「吾我」というものに気をつけながら、吾我と上手に関わっていきたいものです。