第5回「首章・機縁C 三十二相(さんじゅうにそう)八十種好(はちじゅっしゅごう) ―“お坊さんらしさ”の追求―

【機縁】 (たと)三十二相(さんじゅうにそう)八十種好(はちじゅっしゅごう)具足(ぐそく)すると(いえど)も、
必ず老比丘(ろうびく)の形にして、人人にかはることなし。

「坐禅(正身端坐(しょうしんたんざ))」を行とするお釈迦様のみ教え・生き様に惚れ込み、仏法僧の三宝に帰依する遺弟(ゆいてい)を名乗るのであれば、「お釈迦様一期の行状を自らの表準としていくこと」は至極当然のことであり、何ら疑いの余地はありません。

そんなお釈迦様の行一筋に生きてきた仏道修行者が、その後継者としての器があると見抜いた者に正しい仏法(正法眼蔵(しょうぼうげんぞう))を伝えるということの繰り返しによって、仏法は時代を超え、国境を越え、今の私たちの眼前に存在しています。そのことが瑩山禅師様によって提示されていることが、「伝光録」を紐解くことによって見えてまいりますが、そんな禅師様のお言葉を今一度、読み味わわせていただいた上で、一人の釈尊遺弟として、我が日常の行状を振り返っておく必要があることを痛感しております。それは「お坊さんらしさ」ということにつながっていくように感じております。果たして、自分自身が日常発する言動が、他者から見たときに「お坊さんらしい」と感じていただけるかどうか、その上で、釈尊遺弟としての器を磨いていくことが、遺弟たるものの使命であると捉えております。

そうした“お坊さんらしさ”ということに関して、今回の一句に目を向けていく上で、「三十二相」や「八十種好」という言葉に着目してみたいと思います。「三十二相」は「出家・在家に関わらず、全ての大人が具えている(具足)姿形」のことです。また、「八十種好」は「仏と成りし者が具足する特徴」のことで、先の三十二相に付随する副次的なものです。三十二や八十の全てを示すほどの紙面の余裕がありませんので、詳細は割愛させていただきますが、双方、内容が重複しているものが見受けられるものの、全身に渡って丸みや穏やかさ、端正で調ったお姿が現れていたり、光明(仏の光)に満ちた黄金色のものであったりという特徴が伺えます。いずれにしても、周囲の人びとが親しみやすさや安心感を覚えてくれるような姿であり、まさに世間一般が僧侶に願う“お坊さんらしさ”とも合致しているように感じます。

―「必ず老比丘の形にして、人人にかはることなし」―
「比丘」は「男性の修行者」を意味していますが、「老」という言葉が付されていることによって、瑩山禅師様が「四十九年、一日も独居することなく、暫時も衆の為に、説法せざることなし」と評されたように、お釈迦様の説法一筋のご生涯における晩年のお姿が強くイメージされているような気がいたします。それは、かの臨終の瞬間、「仏遺教経」にあるように渾身の力を振り絞って、最期に遺弟の皆様に説法をなさったお姿とも通じます。あのお姿は「衆の為に説法する」お姿そのものです。そういう生き様を遺弟の一人として、真似ることによって、人によって変えられることなく仏法が流伝していくのです。