一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第20回「(くう)なるいのちを生かすこと」

今我が身体内外の所有、何を以て本と()んや。身体髪膚(しんたいはっぷ)は父母に()く。
赤白の二滴は始終(ししゅう)()(くう)なり。所以(ゆえ)に我に非ず。

静坐(じょうざ)(姿勢を調え、心静かに端坐(たんざ)する)してみると、頭の中や心の中に様々な思いや考えが浮かび上がってきます。そんな中で、今・ここに生かされている自分という存在に対して、今まで考えてもみなかったことや、気づきもしなかったものが見えるようになってきます。前回、道元禅師様の「静坐して観察せよ」というみ教えに触れさせていただきましたが、それを受けて、実際に静坐してみると、様々な発見があるのです。

サンフランシスコにある曹洞宗国際センター2代目所長をお勤めになった藤田一照老師の著書「現代坐禅講義―只管打坐への道」(2012年 株式会社佼成出版社)は、私にとっての坐禅の教科書の一つです。その中で、藤田老師は昭和の禅僧・内山興正(うちやまこうしょう)老師(1912−1998)が発せられた「思いはアタマの分泌物」というお言葉を引用しながら、「坐禅はこころをからっぽにして何も感じず、何も思わないでボーっと恍惚状態になっていることだと理解している人が多いようだが、それは誤解であり、生命が純粋に生命しているのが坐禅である」とおっしゃっていますが、まさに、その通りなのです。すなわち、「頭の中に浮かんだ考えを強引に止めて消し去ってしまうのではなく、浮んだものは浮かんだままにして、そこに捉われない。心の中に生じた思いも同様に、生じたままにして、そこで立ち止まらない」―それが「思いはアタマの分泌物である」ということなのです。そして、私たちには六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・心・身体)がありますが、そこに入ってくるものに対しても、目に入ってきた情報は見えたままに、耳に聞こえてきた情報も聞こえてきたままに、何か特別な力を加えて、強引にコントロールしないようにしていくのが坐禅の立場であり、「生命が純粋に生命する」ということなのです。

そうした特別な力を加えることもなく、我が身を周囲に委ねるようにしていく中で、自分が周囲の様々な存在とつながりながら生かされていることに気づきます。すなわち、自分という存在は、一人で生かされているのではなく、今という時間を共有する全ての存在、過去に生かされてきたあらゆる存在、そして、未来に生かされていくであろう存在、時間や場所を超えて、全ての存在と関わり合い、支え合っていることに気づかされるのです。それが「我が身体内外の所有、何を以て本と為んや」という問いかけに対する一つの回答であると捉えています。

思えば、修証義第一章・總序の中でも学ばせていただきましたが、「人身得(にんしんう)ること(がた)し」が指し示しますように、私たちは先祖代々のつながりの中で生かされていると共に、もしも、その中の一人でも欠けていたならば、こうして今・ここに存在することさえできなかったわけです。先祖代々、とりわけ、その中でも最も身近な先祖は父母です。まさに「身体髪膚は父母に禀く」とある通りです。「身体髪膚」は私たちの身体全体を指します。また、「禀く」には、「天命を受けて生まれる」という意味があります。「赤白の二滴」という言い回しは、父と母の存在によって私という存在があることを指し示しているのです。

そんな「赤白の二滴」である私は、「空」なる存在であると道元禅師様おっしゃっています。ここが重要なポイントであると捉えております。「吾我を忘れる」ということが「菩提心を発す」ことであるというみ教えが示されていく中で、自分が誰よりも大切にし、誰よりも執着してやまない自分((われ))という存在は、「空」、すなわち、「無常なる存在」でしかないと道元禅師様はおっしゃっているのです。

ということは、いくら我が身を可愛がり、自己中心的な考え方で毎日を過ごしたところで、そんな自分は「露命(ろめい)」という言葉もあるように、いつ、どうなるかわからない、はかない存在でしかないのです。そのことをしっかりと押さえた上で、どう生きていくことが求められているのか、よくよく考えながら、仏教のみ教えを味わっていかなくてはならないのです。

自分の身体と思っているものも、実は先祖代々のつながりを持つ父母からのいただきものであり、いつどうなるかわからないはかない存在です。そんな「空なるいのち」を正しく生かすことが、いただきもののいのちを生かされている私たちの使命なのです。そして、その正しき生かし方を示してくださったのがお釈迦様であり、そのみ教えが示されているのが、仏教であることも、今一度、確認しておきたいところです。