第55回「唯嫌揀択(ただけんじゃくをきらう)

自分を迷わせてしまう“選り好み”の習性を捨てて、
何事もよくよく見極めて、その価値を認めていく

()揀択(けんじゃく)を嫌う」と訓読みします。「揀択」は「選り好みをすること」で、取捨や憎愛といった2つの選択肢に対して、どちらか一方に捉われてしまうことを意味しています。一方を選び、一方を捨てるといった揀択の考え方なり周囲との関わり方をお釈迦様始め、歴代の仏教祖師方はお認めになっていません。全てを受け止め、その価値を認めていくことを説いていらっしゃいます。それが仏教です。そして、そんな仏教の一側面が、昨今の「誰一人として取り残されることなく」をキーワードとする「SDGs」とも通ずのです。

曹洞宗門で著名なご老師がご遷化(せんげ)(お亡くなりになること)になりました。地元紙始め、メディアでも報道されたご老師の訃報を受けて、生前、ご縁のあった方々が最期のお別れにお寺まで駆け付けたのは勿論のこと、数日に渡り地元紙の投書欄にご老師に対する追悼文が寄せられていたのが印象的でした。厳しいながらも温かみもあるお人柄。そして、坐禅を始め、仏道修行に邁進されるご生前のお姿が思い出されました。そうした仏の如きご生涯が一般社会に大きな影響を与え、人びとの心の支えになってきたことが追悼文を拝見しながら痛切に伝わってきました。

―「子どもの頃はガキ大将で、それゆえか反骨精神が強く、理に反すると判断したことは、相手が誰であろうが、歯に衣着せぬいいようで言葉を発した」―
ご老師のご法話をお聞きした方が追悼文に認められたお言葉です。ここに見られるご老師のお人柄は、ときには相手に厳しい印象を与えてしまうこともあったかもしれません。不快感を覚えた方もいらっしゃったかもしれません。しかし、そのときの自分が受けた印象だけで相手の人となりの全てを判断してしまえば、相手を正しく理解することなどできません。なぜ、相手が厳しい言葉を発したのか、なぜ、相手が不愉快な態度を取ったのか、その原因を相手の人柄だけに求めていては、いつまでも相手を理解することができないばかりか、自分自身も成長することはないでしょう。そもそも、自分には相手を不愉快にさせ、怒らせてしまうようなことはしていなかったと言い切れるでしょうか。相手の人格を責め立てる前に、自分の言動に目を向け、謙虚に振り替える姿勢を持ちたいものです。そうすることによって、相手が間違っていて、自分が正しいという揀択がなくなり、双方を認め、受け止めていけるようになっていくような気がいたします。

―「唯だ揀択を嫌う」―
こうして見ていくと、いかに「揀択」という人間の習性が、我々を迷わせ、正しい判断力を欠かせてしまうことかに気づかされます。様々な存在と関わっていかなければならない日常生活の中で、自分を迷わせ、正しい判断力を欠かせてしまうものの一つが揀択であることに気づき、揀択を嫌って毎日を過ごしていくことを心がけていきたいものです。私自身、それが亡きご老師から教わった御仏のみ教えと捉え、日々を過ごしていきたいと願っています。合掌