一、菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事

第21回「坐禅の再考心意識智(しんいしきち)・出入の一息の観点から―

心意識智(しんいしきち)、寿命を(つなぐ)ぐ。出入の一息、畢竟如何(ひっきょういかん)所以(ゆえ)に我に非ず。
彼此執
(かれここと)
るべきなきをや。

私たちは、いつ何が起こり、どうなるかわからないいのちを生かされています。前回は、それを“空なるいのち”と申し上げました。

そんな自分という存在に対して、改めて目を向けてみると、身体と心がつながり、関わり合って、自分が成立していることに気づかされます。そうした自分という存在について、前段では身体の面から教示がなされましたが、今回は心(心意識智)の面、そして、呼吸(出入の一息)の面からのお示しです。

身体が“空なる存在”であるならば、心意識智にせよ、出入の一息にせよ、同様に“空なる存在”です。まずは心意識智に目を向けてみましょう。私たちの心もまた、周囲の様々な状況の中で、変化を繰り返しています。そんな心と身体が一体となって、私たちは“空なるいのち”を生かされているのです。それが「心意識智、寿命を繋ぐ」の意味するところです。自分がいただいているいのちというものを考えてみるとき、心と身体の両方を意識するのとは勿論のこと、両者は別個に存在しているのではなく、一体となって存在しているという道理をしっかりと押さえておくことが大切です。

次に出入の一息について、考えてみたいと思います。これは「呼吸」のことで、私たちが“空なるいのち”を生きていることを証明するものの一つです。私たちは空気を吸い、それを体内に循環させ、外に吐き出して生きているわけですが、それが「出入の一息」です。道元禅師様は「出入の一息、畢竟如何」とおっしゃいます。心意識智に引き続き、「呼吸」という存在に対して、目を向けさせようとしてくださっているのです。

ひょっとすると、我々は日常生活に追われる中で、「出入の一息」というものに対し、特段の意識をすることもなく、まるで当然であるかのように息を吸ったり吐いたりしているかもしれません。

しかし、空なるいのちである限り、いつかは老いや病によって往時の勢いも弱まり、最期は停止します。そんなとき、それまでは当たり前で、意識さえもしていなかった呼吸の存在やその重要性にハタと気づかされるのではないでしょうか。そうした我が身が愈々、終焉を迎えようとするタイミングではなく、今、こうして当たり前のように生かされているタイミングの中で、我が呼吸というものと向き合ってみたとき、一体、何が見えてくるのか?それが道元禅師様の我々学道の者たちに対する一つの問いかけであると捉えています。


「身体」・「心」・「呼吸」の三者は“空なるいのち”を形成する三大要素ともいうべき存在です。それら一つ一つが関わり合い、支え合って、自分という存在が成立しているのです。この三者に“調”の文字が付されると、「調身」・「調心」・「調息」となりますが、ここで、坐禅という仏行との関係性に触れておきます。


この点について、道元禅師様は「普勧坐禅儀」の中で、坐禅を繰り返していく中で、私たちは自ずと、この三者が関わりに気づかされることをお示しになっています。坐禅はまずは身体を調える(姿勢を調える)「正身端坐」から始まります。腰を地面に安置させ、背筋が真っ直ぐに伸びるようにしてみると、身体が調ってきます。そうした中で、心と身体が自ずと調っていくのです。自分で意識して決まった形に我が身を当てはめていくとか、自ら理想形を求めて作り上げていくというのではなく、「結果自然成」というように、自然と結果がそう成っていくのです。それが坐禅における「調身」・「調心」・「調息」ということなのです。

そうした坐禅を行じながら身体・心・呼吸の三者との関わりを体感していくとき、私たちは「赤白の二滴」たる我がいのちの尊さや生かされていることへのありがたさに気づき、生きにくい現代社会の中でも、生き生きかつワクワクと毎日を過ごしていける原動力をいただけるのです。こうして坐禅という仏行を再考するとき、やはり、坐禅のある日常を過ごしていきたいということに辿り着くのです。