第7回「首章・機縁E 仏法流伝の因縁 ―その根底にあるもの―」
【機縁】今の因縁分明に指説す。設ひ四十九年、三百六十余会、指説すること異なりと雖も、種々因縁、譬喩言説、この道理に過ぎず。
学道の者(仏道修行者)にとって、教えを受ける上で最適のタイミングとなる「機縁」の最期の一句を読み味わわせていただきます。ここではまず、瑩山禅師様はお釈迦様が六年間に渡る正身端坐の末、三十歳臘月八日、明星が出たとき、「我れと大地有情と同時に成道す」と獅子吼なさったことに触れていらっしゃいます。これがお釈迦様の成道(お悟りを得ること)であり、これが“因”となって、仏教が誕生、梵漢和(インド・中国・日本)へと流伝(伝わること)していったことが引き続き示されていきます。これは先の“因”に対する“果”であり、こうした仏法流伝の因縁というものが瑩山禅師様より分明(詳細)に指説(説明)されてきたのが、「機縁」なのです。
そんな仏法が梵漢和において流伝してきたことによって、お釈迦様のみ教えに触れた学道の者たちは、お釈迦様の生き様や形儀を慕い、瑩山禅師様が「片時も自己をさきとせざることなし」と評するように、どんなときもお釈迦様の師として敬いました。これぞまさに、仏に帰依する学道の者の姿であり、仏法の流伝における因果でもあるのです。
ここで、瑩山禅師様によって提示されている「因縁」について触れておきます。これは仏教における極めて重要な思想です。修証義第一章の中で、道元禅師様より「因果の道理」に関するお示しがありましたが、「因縁」は、「因果の道理」と合致するもので、今一度、よくよく確認しておきたいところです。今の自分自身と向き合ってみたとき、幸せな毎日を過ごしている方は、過去に善行に励み、徳を積んできたことが因となって、今の果があるのです。逆に今、あまり幸せを感じられていない方は、過去のどこかに今の結果を生み出す悪しき原因があったはずです。「大凡因果の道理歴然として私なし」は修証義の一句ですが、今の現況に満足することなく、不平不満を言ったり、他者や周囲が悪いと、人のせいにするような考え方をしていてはいけません。全ては自分が作り、自分によってもたらされた結果であることを、「私なし」という言葉からしっかりと押さえておきたいところです。
そうした仏法流伝における因縁始め、難解な仏法を日常生活の様々な場面をヒントに喩えを用いてわかりやすく示されたというのが、「譬喩言説」の意味するところですが、「譬喩言説」には、様々な見解があることは、瑩山禅師様もお認めになっています。「四十九年、一日も独居することなく」というお言葉に表れているように、お釈迦様は説法三昧のご生涯を送られただけに、「八万四千」と呼ばれる膨大なみ教えを始め、多岐に渡る譬喩言説が存在するのは致し方ないことかもしれません。当然ながら、異国に流伝していく中で、種々の解釈だって生ずることでしょう。しかし、その根底にあるものは、三十歳臘月八日における「我れと大地有情と同時に成道す」の獅子吼ただ一つだと瑩山禅師様はおっしゃっているのです。
そのことを踏まえ、次回からは瑩山禅師様が更にご自身の見解を詳細にお弟子様に提示なさっている「拈提」を味わってまいりたいと思います。