第8回「首章・拈提@ “我”の参究」

【拈提】(いわ)ゆる(われ)とは釈迦牟尼仏に非ず。釈迦牟尼仏も、
この我より出生(しゅっしょう)し来る。(ただ)、釈迦牟尼仏出生するのみに非ず。
大地有情も皆()れより出生す。

今回から始まる「拈提」は、瑩山禅師様が大乘寺の修行僧に対して、祖師方が師から仏法をいただき、お悟りを得た機縁に触れながら、ご自身の見解をお示しになった箇所です。瑩山禅師様の視点から仏教祖師方の師と弟子のやり取りの背景にあるものなどが明示されており、非常に内容が深く、読み応えもあります。

今回の一句はお釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日、六年間の端坐(たんざ)の末、お悟りを得た際に獅子吼(ししく)なさったとされる「我れと大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す。」における「我」に関する拈提です。瑩山禅師様によれば、お釈迦様は「我と大地有情と〜」とおっしゃっているものの、この「我」はご自分のことを指しているのではないとおっしゃっています。すなわち、「我=釈迦牟尼仏ではない」というのです。それが「謂ゆる我とは釈迦牟尼仏に非ず。」の意味するところです。

続けて、瑩山禅師様は「釈迦牟尼仏も、この我より出生し来る。」とおっしゃっています。お釈迦様は「我」からお生まれになり、成道(仏の道をお悟りになること)なさったというのです。そして、「釈迦牟尼仏出生するのみに非ず。大地有情も皆是れより出生す。」とあります。お釈迦様が「我」からお生まれになっただけではなく、同時に大地有情なるこの世の全ての存在も、お釈迦様と同じように「我」から出生し、成道なさったと瑩山禅師様はお示しになっているのです。

この「我」なるもの正体は何なのでしょうか。そして、「我=釈迦牟尼仏ではない」というのは、一体、どういうことなのでしょうか。ここが仏教思想における要の一つであり、難解なところでもあります。仏道修行者たる我々の使命とは、仏道を行じながら、「我」というものを参究し、明確にしていくことなのです。

そもそも、「我」というのは、「自分」という捉え方をするのが一般的ではないかと思いますが、我が身を「我」と称するのは、お釈迦様だけではありません。全てのいのちが「我」なのです。そんな「我」という存在は、空なるものであると仏教では説きます。すなわち、いつ、どうなるかわからないはかない存在であるということです。自分の頭なり、自分の手足だと思っているものも、いつかは老い、死を迎え、滅びていきます。あの世に赴く者に生前の自分の手足や頭が一緒についてくるわけではありません。修証義第一章・總序の中に「唯独り黄泉に赴くのみなり」とあるように、私たちは一人であの世に赴くのです。自分を意味する「我」ではありますが、その背後には自分のものだと思い込んでいたものが、本当は空なる存在であり、決して、自分のものだと強く主張し、執着すべきものではないという意味が含まれていることを、しっかりと押さえておきたいものです。

そうした我が身たる「我」が、実は有限の存在であり、はかないものであることへの明確な理解・体得というのが、お釈迦様のお悟りであったのです。有限且つはかない性質をお悟りになると同時に、それがお釈迦様のみならず、この世の全てのいのち・存在に当てはまることをも、お釈迦様はお悟りになったのです。

さらに、そうした一つ一つの「我」が集まり、お互いに支え合い、助け合って、この娑婆世界が成立していることも、お釈迦様はお悟りになったのです。すなわち、全ての存在がつながり、関わり合っているという、「衆縁和合(しゅうえんわごう)」や「縁起(えんぎ)」の道理にもお気づきになったというのです。

そうしたつながって、支え合っている全ての存在に対して、「我」の一つであるお釈迦様が六年間の坐禅修行の末、お悟りをお開きになったとき、その周囲でつながっている全ての存在もまた、同時にお悟りを得たというのが、「釈迦牟尼仏出生するのみに非ず。大地有情も皆是れより出生す」の意味するところです。我々が生かされている娑婆世界というのは、様々な「我」が集まり、支え合い、関わり合って存在していることを今一度確認しながら、自分という存在は、そんな中にある一つの「我」であると捉えておきたいところです。そうした「我」というものを次回も引き続き、伝光録を読み味わいながら、参究していきたいと思います。