一、
第22回「“迷う者”と“悟る者”―悟る者を目指して―」
迷う者は之れを
而
世情の断ずべきを断ぜず、実法を厭い、妄法を求む。
お釈迦様に帰依し、そのみ教えと共に日常を生きる学道の者(仏道修行者)が心得ておくべき10ヵ条が示された「学道用心集」において、1番目の心得である「菩提心を
後者について、我々人間は、意識するしないに関係なく、どうしても我が身を優先させ、自分中心にものを見たり、考えたりしてしまいます。それを“自分に執着する”ことであると捉えた上で、道元禅師様は「迷う者は之れを執り、悟る者はこれを離る」とお示しになっています。我が身を最優先にしたものの考え方をする者、そうした言動を提示してしまう者は、“迷う者”でしかなく、本当のお釈迦様のみ教えを体得できた者は、周囲の存在にも目を配り、それに応じた言動を提示していくというのです。それが“悟る者”ということなのです。
そして、“迷う者”というのは、「無我の我を計し、不生の生を執し、仏道を行ぜず」と道元禅師様はお続けになります。自分という存在は、いつ何が起こり、どうなるかわからない存在です。それが「無我」ということなのですが、そうであるにも関わらず、“迷う者”は、そのことを認めることも、理解することもありません。ひょっとすると、この世が無常であるということすら、普段から意識されていないのかもしれません。だから、「我を計する」のです。これは、何事も自分中心に、様々な計りごとをしながら、打算的に行動するのを指しています。まさに、吾我を離れていないのです。
また、「不生の生を執し」とあるのは、時間の流れとともに万事が変化していく無常の世にありながら、変化しないことを願う様を指しています。これにしても、「無常を観ずること」とは真逆の状態です。まさに、「佛道の行ずべきを行ぜず」とは、こういうことを指しているのでしょう。
だから、「世情の断ずべきを断ぜず、実法を厭い、妄法を求む」のです。いつまでも妄法(世間の誤った考え方)に捉われているがために、実法(仏法)が堅苦しいとか、難しいものに見えてきて、ついつい嫌がってしまうのです。これは学道の者としては、「豈に錯らざらんや」、「錯った考え方である」と道元禅師様は断じていらっしゃいます。学道の者の一人として、よくよく心得ておきたいところです。
最近、住職が生活している石川県は、2023年秋に国内最大規模の文化の祭典と言われる「国民文化祭(いしかわ百万石文化祭2023)」が開催されます(平成4年以来、31年ぶり2回目の開催)。また、この3月に県知事に就任された馳浩知事が2023年に日本で開催される先進7カ国首脳会議(G7)に際し、教育分野における閣僚会議の県内誘致を目指し、尽力なさっています。北陸新幹線が2023年末に金沢―敦賀(福井県)間が開業するのに向け、コロナ禍の中ではありますが、県内全体の文化や教育の質が今まで以上に向上してく機縁になると期待しております。
―そんな石川県に生かされている仏道修行者として―
“学道の用心”を学び、道に生きていく姿勢を欠かしてはならないのではないか、最近は、そんなことを考えるようになった住職です。まずは石川県の禅宗のお寺から発信することが大切です。そうやって、石川県内全体の質が向上し、各種イベント・行事が人びとの心に残るものとなっていくことを願うばかりです。